フリゲート指揮官
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「ジョン・クック (イギリス海軍)」の記事における「フリゲート指揮官」の解説
1793年2月にフランス革命戦争が勃発し、クックは再びフッドと任務に就き、フッドの新しい旗艦で、海峡艦隊所属の100門艦「ロイヤル・ジョージ(英語版)」に乗った。1794年2月21日、クックは指揮官に昇任し、小型の火船「インセンダイアリー(英語版)」の指揮をまかされた。3か月の後、「インセンダイアリー」は大西洋作戦(英語版)で、海峡艦隊へ、リチャード・ハウの信号を艦隊に取り次ぐ役目を負い、また、ヴィヤレ・ド・ジョワユーズ(英語版)指揮下のフランス艦隊の偵察を務めた。1794年6月1日、クックは栄光の6月1日に立ち会ったが、彼の艦は交戦するには小さすぎた 。この海戦の後、艦隊への一斉昇進にクックも加えられ、7月23日にポストキャプテン(英語版)となった。その後1年間、ジェームズ・ウォーレス(英語版)の旗艦艦長(英語版)として、74門艦の「モナーク」でニューファンドランド島沖に駐屯した。そしてイギリスに戻ったクックは、28門艦「トゥルテレル(英語版)」の指揮官となった。クックはこの任務を引き受けたが、この艦が西インド諸島へ行かされることを知って辞任した。ガードナーから、今後の西インド諸島での任務は戦死の可能性があるだろうと聞かされたからである。 その代りにクックは、1796年初頭に36門フリゲート艦「ニンフ(英語版)」の指揮官となり、翌年までフランスの大西洋側の港を封鎖するようにとの命令を受けた。1797年の3月9日には「セント・フィオレンゾ(英語版)」に乗艦して、ウェールズでのフィッシュガードの戦い(英語版)から帰還途中のフランス艦と交戦した 。イギリス軍はこの戦いで敗北していた。フランス艦はブレストに逃げ込もうとしたが、イギリス軍に追い詰められ、短い戦いが何度か続けて行われた後、「レジスタンス(英語版)」と「コンスタンス(英語版)」の2隻が次々に降伏を強いられた。イギリス艦の方では死傷者が一人も出ず、フランス艦2隻はその後イギリス海軍に購入され、クックと乗員に賞金が支給された。 この成功にもかかわらず、艦上での規律が厳しかったこともあり、クックは乗員の人望は今一つだった。ブレスト沖の任務直後のちょうど2か月後、スピットヘッドとノアの反乱に「ニンフ」が巻き込まれたことが、それを如実に物語っていた。クックは、反乱勃発時にジョン・コルポイズ提督を支援しようとし、艦に戻る際に乗員から帰艦を拒否された。クックは反乱の後、海軍本部からの「ニンフ」の指揮官就任をうまく切り抜けたが、その次に彼に任務が与えられたのは2年後のことだった。この任務は、新造フリゲート艦の「アメティスト(英語版)」の指揮官で、これは、イギリスとロシアの連合軍によるバタヴィア共和国侵略のためのものであった。作戦の間、アメティストはヨーク公フレデリック王子を護衛してオランダに行き、その後、作戦の失敗による兵の撤退に関与した。 クックはその後、1799年いっぱいはキベロン湾の作戦に加わり、1800年にはスペインのフェロル侵攻に参戦したが、これは失敗した。この時、アメティストは6隻のフランスの商船と小型の私掠船を拿捕した。1801年1月26日、クックはフィニステレ岬沖で、サミュエル・フッド・リンゼーとリチャード・キング(英語版)による、フランスのフリゲート艦「デダニューズ(英語版)」追跡を支援し、この艦の拿捕に参加した。「アメティスト」は「デダニューズ」との交戦にはあまりかかわっておらず、損害は受けなかった。しかしこの艦は追跡と拿捕に加わっており、恐らくはフランスに押収されたと考えられる。「デダニューズ」はのちにイギリス海軍に購入された。その少し後に、クックはスペイン艦「カルロッタ」と、フランスの私掠船「ジェネラル・ブリュヌ」を、「デダニューズ」を捕らえた同じ海域で拿捕した。
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