西部の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:44 UTC 版)
南北戦争以降、ミシシッピ川以西の地域の開発が急速に進んだ。この開発の先陣を切ったのは鉱山開発であり、ロッキー山脈やカリフォルニア州で金や銀などの貴金属だけでなく、銅、鉄鉱石、石炭など重要鉱産資源の採掘がはじまった。各地に鉱山キャンプが出現し、やがて鉱山町へと発展していった。次に進出してきたのは牧畜業者であり、グレートプレーンズ西側の乾燥地帯での公有地を利用した牛の放牧がはじまった。1870年代以降は、この乾燥地帯にも農業開発の手がおよんだ。農機具の改善、乾燥農法、耐乾品種の導入、鉄条網の普及などによって耕地や家畜の管理が容易になったためであった。 1862年のホームステッド法(自営農地法)によって、公有地をみずから耕作しようとする者には160エーカー(約64.6ヘクタール)の土地が無償で与えられることとなり、西部農民の年来の念願が果たされた。事実においては、この法よりも土地会社などから土地を購入して西部に移り住んだ者の方が多かったとはいえ、これは「機会均等」というアメリカン・ドリームを裏打ちする制度として大きな意味をもっていた。そして、西部が発展し、人口が増加し、農牧業が振興されることは、アメリカの工業生産にとっても市場の拡大を意味し、工業と農業の相互補完的な発展が可能となった.アメリカの工業化は脱農業化をともなわなかったのであり、外国市場に依存しない自立的な国民経済の形成が進んだのである。この時期の爆発的な工業化と都市化はまた、原料、動力源、食糧の需要の飛躍的な拡大をもたらした。そして、農業的・鉱業的な西部と興行的・都市的な東部および五大湖沿岸地域とは鉄道網で結ばれたのである。 公有地の開放や鉄道敷設に対する支援などの場面で連邦政府が果たした役割も大きかった。西部開発は、国家によって支援されたアメリカ資本主義の発展と不可分の関係にあったといってよい。その一方で、先住アメリカ人(ネイティブ・アメリカン)は野蛮視ないし未開視され、苛酷に扱われた。白人の改革運動家からこのような扱いが批判を浴びたこともあって、1887年、連邦政府によってドーズ法が制定され、対先住民政策の転換が図られたが、それは先住民の「文明化」を本質とするものであった。
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