西部の戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 18:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「西部の戦争」の解説
詳細は「西部戦線 (南北戦争)」を参照 東部で南軍が北軍との流血の多い膠着状態を続けている間に、西部では北軍が大きな成功を挙げていた。当初南軍がウィルソンズ・クリークの戦いで勝利を収めたにも拘らず、ミズーリ州における南軍の反乱は1863年までに連邦政府に抑えられた。ペリービルの戦い後、南軍はケンタッキー州からも追い出され、北軍の大きな勝利となった。リンカーンはケンタッキー州に宛てて「私はケンタッキー州を失うことが戦争全体を失うことに近いものだと考える」と書き送った。ミシシッピ州ビックスバーグの陥落で、北軍はミシシッピ川を支配し、南軍の領土を2つに分けた。ウィリアム・シャーマンがチャタヌーガとアトランタで成功したことで、南軍はシャーマン軍によるジョージア州と両カロライナ州の破壊をほとんど妨げられなくなった。いわゆるダコタ戦争が1862年にミネソタ州で勃発した。
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