西部のインディアン戦争年譜
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「インディアン戦争」の記事における「西部のインディアン戦争年譜」の解説
コマンチ戦争(英語版) (1836-1875) 南部平原、主にテキサス共和国とテキサス州(テキサスのインディアン戦争を参照) カイユース戦争(英語版) (1848-1855) オレゴン準州-ワシントン準州 ロウグ川戦争(英語版) (1855-1856) オレゴン準州 ヤキマ戦争(英語版) (1855-1858) ワシントン準州Puget Sound War クーダレン戦争(英語版) (1858) ワシントン準州 パインクリークの戦い(英語版) (1858) フレーザー・キャニオン戦争(英語版) (1858) ブリティッシュコロンビア州 カリフォルニア・インディアン戦争 (1860-65) フーパ族、ウィヨット族、ユロク族、トロワ族、ノムラキ族、チマリコ族、ツヌングウェ族、ホィルクート族、カルク族、ウィントン族その他に対する戦い ラマルチャ戦争 (1863) ブリティッシュコロンビア州 チルコティン戦争(英語版) (1864) ブリティッシュコロンビア州 ナバホ戦争(英語版) (1861-1864) アリゾナ準州、ニューメキシコ準州ロング・ウォーク・オブ・ナバホで終了。 en:Black Hawk War (1865–1872) フアラパイまたはワラパイズ戦争 (1864-1869) アリゾナ準州 アパッチ作戦またはアパッチ戦争 (1864-1886) カールトン将軍がナバホ族とともにメスカレロ・アパッチ族をサムナー保留地に強制移住させたもの。ジェロニモが降伏した1886年まで継続 ダコタ戦争 (1862) ミネソタ州南西部での白人入植者による挑発で、保留地で飢餓状態になっていたスー族が暴動を起こしたもの。100人以上が死亡。アメリカの歴史の中でも大量同時処刑となる38名のスー族が絞首刑にされた。米軍はこれにかこつけて、無関係な約1,600名のスー族を、今日のサウスダコタ州の保留地に強制移住させた。 レッドクラウド戦争 (1866-1868) スー族のマアピア・ルタ(レッド・クラウド)にちなんでこう呼ばれるが、レッド・クラウド自身はこの戦いに参加していない。ララミー砦の条約で、アメリカ和平委員会はスー族の一大保留地「グレート・スー・ネーション」を認め、「ここには軍隊の駐留や監視が無く、入植者が入ることなく、道路建設権も無い」と約束したが、数年後には反故にされた。これに怒ったスー族は、前後していくつもの襲撃を加えている。この保留地にはブラックヒルズ全体が含まれていた。 コロラド戦争 (1864-1865) コロラド東部平原を中心としてアメリカ軍と、シャイアン族とアラパホー族の連合軍が衝突 サンドクリークの虐殺 ジョン・チヴィントンが降伏したシャイアン族とアラパホー族450名以上を殺害 コマンチ作戦(英語版) (1867-1875) ミズーリ方面軍の指揮官フィリップ・シェリダン少将が1868年から69年の冬季作戦行動を指揮。コロラド州、カンザス州、ニューメキシコ州およびテキサス州の境界地域に散在するコマンチ族やカイオワ族などのインディアン部族の掃討を目論んだもの 。シェリダンの有名な暴言「良いインディアンとは、死んだインディアンのことだ」はこの時生まれた。ビーチャー・アイランドの戦い(英語版) (1868) 北部シャイアン族の戦士ローマン・ノーズがアメリカ第9騎兵隊の斥候と9日間戦った。 ウォシタ川の虐殺 (1868) ジョージ・アームストロング・カスターの第7騎兵隊がウォシタ川沿いのブラック・ケトルの無抵抗のシャイアン族キャンプを奇襲攻撃。250名の男女、子供が殺された。 サミット・スプリングスの戦い(英語版) (1869) トール・ブルに率いられたシャイアン族が、ユージーン・A・カー大佐指揮のアメリカ軍に敗北。トール・ブルはバッファロー・ビル・コディに殺されたと伝えられている。 en:Battle of Salt Creek パロ・デュロ峡谷の戦い(英語版) (1874) シャイアン族、コマンチ族およびカイオワ族の戦士が、ラナルド・S・マッケンジー指揮する第4騎兵隊と交戦 レッドリバー戦争(英語版) (1874-1875) ウィリアム・シャーマンおよびフィリップ・シェリダン中将指揮下の合衆国軍とコマンチ族の戦い モードック戦争またはモードック作戦 (1872-1873) キエントプース(英語版)酋長(通称キャプテン・ジャック)や53名のモードック族戦士が溶岩石の荒地に立てこもり、1000名の米軍兵士を7か月間手こずらせた。エドワード・キャンビー将軍が和平調停中に殺され、インディアン戦争で殺された唯一の将軍となった。キエントプースは絞首刑となり、家族の懇願も無視されて、その死体は有料の見世物にされた。 ブラックヒルズ戦争またはリトルビッグホーン作戦 (1876-1877) シッティング・ブルやクレイジー・ホースたちスー族が、ララミー条約の違反に抗議し、合衆国軍と戦った。ローズバッドの戦い(英語版) (1876) クレイジー・ホースたちスー族が、カスターの第7騎兵隊を支援するために移動中のアメリカ軍と交戦。 リトルビッグホーンの戦い (1876) クレイジー・ホースたちスー族とシャイアン族、アラパホー族が、カスターの第7騎兵隊から奇襲を受け、これを撃退全滅させた。 ネ・ペルセ戦争(英語版) (1877) ネ・ペルセ作戦とも。ジョセフ酋長指揮下の南ネ・ペルセ族が1877年、保留地への強制移住を拒んで、第1騎兵隊の攻撃を避けてアイダホ、イエローストーンおよびモンタナを通ってカナダへの逃亡を試みたもの。これを合衆国軍が追跡攻撃した。 バンノック戦争(英語版) (1878) バンノック作戦とも。土地の分配に不満を持ったアイダホ州南部のバンノック族およびパイユート族が1878年に、アメリカ第21歩兵連隊、第4砲兵連隊および第1騎兵隊と交戦したもの。 シャイアン戦争(英語版) (1878-1879) シャイアン作戦とも。アメリカ武装軍と小規模シャイアン族との戦い シープ・イーター・インディアン戦争(英語版)(1879年5月-8月)シープ・イーター作戦とも。1879年5月1日、3個中隊がアイダホ州中央部でショーショーニー族を追跡襲撃したもの。太平洋岸北西部では最後の作戦 ユート作戦またはユート戦争(1879年9月-1880年11月)1879年9月29日、T・T・ソーンバーグ少佐指揮下の第4歩兵連隊とだ5騎兵隊の一部200名がレッド峡谷で300名ないし400名のユート族戦士に攻撃され包囲された。ソーンバーグ隊は10月早くに第5騎兵隊と第9騎兵連隊に救出されたが、大きな損失を被った。ユート族は1880年11月に和平に応じた。 パイン・リッジ作戦(1890年11月-1891年1月)スー族に最終的な保留地受け入れを迫った、最後の大規模戦闘となった。アメリカ正規軍の約半分に相当する歩兵と騎兵を投入した。残ったインディアン戦士は武器を置き、1891年1月に保留地に入った。ウーンデッド・ニーの虐殺(1890年12月29日)シッティング・ブルの腹違いの兄弟シハ・タンカ(ビッグフット)酋長や約200名のスー族が騎兵隊に殺された。14日前に、シッティング・ブルは、アメリカ政府が彼を逮捕するために派遣したインディアン警察の集団の奇襲を受け、スタンディング・ロック管理所そばのキャンプでインディアン警官に殺されていた。
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