西部のインディアン戦争年譜とは? わかりやすく解説

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西部のインディアン戦争年譜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:41 UTC 版)

インディアン戦争」の記事における「西部のインディアン戦争年譜」の解説

コマンチ戦争英語版) (1836-1875) 南部平原、主にテキサス共和国テキサス州テキサスのインディアン戦争参照) カイユース戦争英語版) (1848-1855) オレゴン準州-ワシントン準州 ロウグ川戦争英語版) (1855-1856) オレゴン準州 ヤキマ戦争英語版) (1855-1858) ワシントン準州Puget Sound War クーダレン戦争英語版) (1858) ワシントン準州 パインクリークの戦い英語版) (1858) フレーザー・キャニオン戦争英語版) (1858) ブリティッシュコロンビア州 カリフォルニア・インディアン戦争 (1860-65) フーパ族、ウィヨット族、ユロク族、トロワ族、ノムラキ族、チマリコ族、ツヌングウェ族、ホィルクート族、カルク族、ウィントンその他に対す戦い ラマルチャ戦争 (1863) ブリティッシュコロンビア州 チルコティン戦争英語版) (1864) ブリティッシュコロンビア州 ナバホ戦争英語版) (1861-1864) アリゾナ準州ニューメキシコ準州ロング・ウォーク・オブ・ナバホ終了en:Black Hawk War (18651872) フアラパイまたはワラパイズ戦争 (1864-1869) アリゾナ準州 アパッチ作戦またはアパッチ戦争 (1864-1886) カールトン将軍ナバホ族とともにメスカレロ・アパッチ族をサムナー保留地強制移住させたもの。ジェロニモ降伏した1886年まで継続 ダコタ戦争 (1862) ミネソタ州南西部での白人入植者による挑発で、保留地飢餓状態になっていたスー族暴動起こしたもの。100人以上が死亡アメリカの歴史中でも大量同時処刑となる38名のスー族絞首刑にされた。米軍はこれにかこつけて無関係な約1,600名のスー族を、今日サウスダコタ州保留地強制移住させた。 レッドクラウド戦争 (1866-1868) スー族のマアピア・ルタ(レッド・クラウドにちなんでこう呼ばれるが、レッド・クラウド自身はこの戦い参加していない。ララミー砦条約で、アメリカ和平委員会スー族一大保留地「グレート・スー・ネーション」を認め、「ここには軍隊駐留監視無く入植者が入ることなく道路建設も無い」と約束したが、数年後には反故にされた。これに怒ったスー族は、前後していくつも襲撃加えている。この保留地にはブラックヒルズ全体含まれていた。 コロラド戦争 (1864-1865) コロラド東部平原中心としてアメリカ軍と、シャイアン族とアラパホー族の連合軍衝突 サンドクリークの虐殺 ジョン・チヴィントン降伏したシャイアン族とアラパホー族450名以上を殺害 コマンチ作戦英語版) (1867-1875) ミズーリ方面軍指揮官フィリップ・シェリダン少将1868年から69年冬季作戦行動指揮コロラド州カンザス州ニューメキシコ州およびテキサス州境界地域散在するコマンチ族やカイオワ族などのインディアン部族掃討目論んだもの 。シェリダン有名な暴言良いインディアンとは、死んだインディアンのことだ」はこの時生まれた。ビーチャー・アイランドの戦い英語版) (1868) 北部シャイアン族戦士ローマン・ノーズアメリカ第9騎兵隊斥候9日戦った。 ウォシタ川の虐殺 (1868) ジョージ・アームストロング・カスターの第7騎兵隊がウォシタ川沿いブラック・ケトル無抵抗シャイアン族キャンプ奇襲攻撃250名の男女子供殺された。 サミット・スプリングスの戦い英語版) (1869) トール・ブルに率いられシャイアン族が、ユージーン・A・カー大佐指揮アメリカ軍敗北。トール・ブルはバッファロー・ビル・コディに殺されたと伝えられている。 en:Battle of Salt Creek パロ・デュロ峡谷戦い英語版) (1874) シャイアン族コマンチ族およびカイオワ族戦士が、ラナルド・S・マッケンジー指揮する第4騎兵隊交戦 レッドリバー戦争英語版) (1874-1875) ウィリアム・シャーマンおよびフィリップ・シェリダン中将指揮下の合衆国軍コマンチ族の戦い モードック戦争またはモードック作戦 (1872-1873) キエントプース(英語版酋長通称キャプテン・ジャック)や53名のモードック戦士溶岩石の荒地立てこもり1000名の米軍兵士を7か月間手こずらせた。エドワード・キャンビー将軍和平調停中に殺されインディアン戦争殺され唯一の将軍となった。キエントプースは絞首刑となり、家族懇願無視されて、その死体有料見世物にされた。 ブラックヒルズ戦争またはリトルビッグホーン作戦 (1876-1877) シッティング・ブルクレイジー・ホースたちスー族が、ララミー条約違反抗議し合衆国軍戦ったローズバッドの戦い英語版) (1876) クレイジー・ホースたちスー族が、カスターの第7騎兵隊支援するために移動中のアメリカ軍交戦リトルビッグホーンの戦い (1876) クレイジー・ホースたちスー族シャイアン族、アラパホー族が、カスターの第7騎兵隊から奇襲を受け、これを撃退全滅させた。 ネ・ペルセ戦争英語版) (1877) ネ・ペルセ作戦とも。ジョセフ酋長指揮下の南ネ・ペルセ族が1877年保留地への強制移住拒んで、第1騎兵隊攻撃避けてアイダホイエローストーンおよびモンタナ通ってカナダへの逃亡試みたもの。これを合衆国軍追跡攻撃したバンノック戦争英語版) (1878) バンノック作戦とも。土地分配に不満を持ったアイダホ州南部のバンノック族およびパイユート族が1878年に、アメリカ21歩兵連隊、第4砲兵連隊および第1騎兵隊交戦したもの。 シャイアン戦争英語版) (1878-1879) シャイアン作戦とも。アメリカ武装軍と小規模シャイアン族との戦い シープ・イーター・インディアン戦争英語版)(1879年5月-8月)シープ・イーター作戦とも。1879年5月1日、3個中隊がアイダホ州中央部ショーショーニー族追跡襲撃したもの。太平洋岸北西部では最後の作戦 ユート作戦またはユート戦争1879年9月-1880年11月1879年9月29日T・T・ソーンバーグ少佐指揮下の第4歩兵連隊とだ5騎兵隊一部200名がレッド峡谷300名ないし400名のユート族戦士攻撃され包囲された。ソーンバーグ隊は10月早くに第5騎兵隊と第9騎兵連隊救出されたが、大きな損失被ったユート族1880年11月和平応じた。 パイン・リッジ作戦1890年11月-1891年1月スー族最終的な保留地受け入れ迫った最後大規模戦闘となったアメリカ正規軍約半分相当する歩兵騎兵投入した残ったインディアン戦士武器を置き、1891年1月保留地入ったウーンデッド・ニーの虐殺1890年12月29日シッティング・ブル腹違い兄弟シハ・タンカ(ビッグフット酋長や約200名のスー族騎兵隊殺された。14日前にシッティング・ブルは、アメリカ政府が彼を逮捕するために派遣したインディアン警察集団奇襲を受け、スタンディング・ロック管理所そばのキャンプインディアン警官殺されていた。

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