リトルビッグホーンの戦い
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リトルビッグホーンの戦い(リトルビッグホーンのたたかい、Battle of the Little Bighorn)は、1876年6月25日にアメリカ合衆国のモンタナ州リトル・ビッグホーン川流域で行われたアメリカ陸軍と北米先住民インディアンとの戦いである。ちなみに、これは白人側の呼称であって、インディアン側の呼称は、「グリージーグラス川の戦い」(Battle of the Greasy Grass)である。
- 1 リトルビッグホーンの戦いとは
- 2 リトルビッグホーンの戦いの概要
- 3 戦場の名称変更と、インディアン記念碑の建立
- 4 関連作品
- 5 関連項目
リトルビッグホーンの戦い
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「フレデリック・ベンティーン」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説
1876年、モンタナのリトルビッグホーン川(インディアン側の呼称はグリージー・グラス川)流域への遠征の際、カスターの下でベンティーンは再びH中隊を指揮した。リトルビッグホーン川から約12マイル (19 km) でH、DおよびK中隊からなる1個大隊の指揮を任された。ちょうどこのとき、ダコタとラコタのスー族、シャイアン族、アラパホー族の連合体約1,500人(1,800人とする資料もある)が、夏至の時期に行う「サン・ダンスの儀式」の打ち合わせと、今後の対白人政策の協議のためにリトルビッグホーン河畔に結集していた。カスターはインディアンがいる正確な場所を知らなかったが、ベンティーンには左側面を守る任務を与えた。ベンティーンは約2時間荒地を偵察したが収穫が無く、その後主力部隊の道筋に戻った。川の方向に向かっていくとカスターからの伝令に遭い、まもなくもう一人の伝令が現れ、大きな野営地が見つかり、ベンティーンも前進するよう伝えてきた。「大きな野営地。急げ。部隊を連れて来い」カスターはベンティーンに、遅いラバの1隊は後方にやってM中隊に守らせ、その中隊を連れてカスターの5個中隊に加わるように示唆していた。これらの隊は連隊の予備弾薬を運んでいた。しかし、ベンティーンはちっとも急がず、貴重な20分を使って浅瀬で馬に水を与えた。しかし、前方に銃声を聞いたベンティーンはその部隊を早駆けさせた。 まずマーカス・リノ少佐が率いるM、AおよびG中隊からなる1個大隊が、インディアン斥候とともにリトルビッグホーン川沿いの大野営地のうち、南西隅側に陣取っていたゴールらのハンクパパ・スー族の野営を奇襲した。が、すぐにクレイジー・ホースらオグララ・スー族がハンクパパに加勢、リノ隊はカスターの片腕を務めたアリカラ族のブラッディ・ナイフ酋長らインディアン斥候を失う大損失を出して壊走させられ、ボロボロになった残り部隊はなんとか川を渉り、崖に登った。リノの部隊はまだ銃撃を受けており弾薬が残り少なくなっていたが、リノは実質的にベンティーンの上官だったので、ベンティーンに弾薬を分け与えるよう命令した。リノは目に見えるほど震えており、効果的に指揮を執る能力が消えていた。数分後に北で大きな銃声を崖の上の部隊が聞き、クレイジー・ホースらオグララ族はリノとベンティーンの部隊から向きを変えて野営地に戻り、銃声の方に向かった。 一方、ハンクパパ族らはリトルビッグホーン川をさかのぼって左岸側のリノ隊を追撃、敗走中のリノ隊は、これらの一斉射撃音をカスターの部隊が交戦中と理解したが、その程度まではリノもベンティーンも分からず、余裕もなかった。二人は状況を見るために進もうとはせず、これが後にカスターを捨てたのではないかという議論を生んだ(ネルソン・マイルズ将軍がそのことを告発した)。 川の右岸側をさかのぼったダコタ族とラコタ族、シャイアン族、アラパホー族は、左岸側から川を渡って攻め込んだハンクパパ族とメディシン・テイル峡谷を越えてカスターの大隊を挟み撃ちにしてこれを破壊し、続いてその注意をリノとベンティーンの部隊に向け、現在「リノ・ベンティーン防御陣地」と呼ばれる場所に追い込んだ。そこはリノとベンティーンが落ち合った場所に近い崖上の馬蹄形をした防衛線だった。その後の24時間、ベンティーンが事実上の指揮を執った。ベンティーンは2度突撃を率いてインディアンを後退させ、兵士達が前進し過ぎるほどだった。ベンティーンは沈着冷静に部隊を歩き回り兵士を激励し、自ら実例を示してリードした。ベンティーンは親指を負傷しており、長靴の踵は跳ばされていた。 ベンティーンは後に左翼の探索に派遣されたときから川を見下ろす崖上に着いた時まで、行動が遅かったことを批判された。しかしベンティーンが偵察を命じられた経路は、カスターが全速で駆け下りたリノ・クリークの緩り降る北支流よりも遥かに険しい地形だった。 ベンティーンがカスターを探し続けるよりも、リノと共に残る決断をしたことも、のちの軍事裁判で批判者によって問題にされた。
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リトルビッグホーンの戦い
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「タイタニア」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説
シラクサ星域会戦後、流星旗軍が大連合艦隊を結成する。タイタニアが軍を派遣しリトルビッグホーンの戦いが始まる。この戦いで流星旗連合軍は全滅する。
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リトルビッグホーンの戦い
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「ブラッディ・ナイフ」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説
「ブラックヒルズ戦争」および「リトルビッグホーンの戦い」も参照 1876年、リトルビッグホーンの戦いが起こった。戦いの前、敵陣を偵察していたブラッディ・ナイフは、スー、シャイアン、アラパホの連合軍が野営地を発見したが、そこに建てられたティピーの数は膨大であった。ブラッディ・ナイフは偵察から戻ったとき「自軍に比べて、敵の数があまりに多すぎる」とカスターに警告した。ブラッディ・ナイフ以外の斥候も、同様の報告をした。副官マーカス・リノら白人たちも、懸念を示した。しかし、カスターはこの忠告に耳を貸さず、撤収する事なく戦いに突き進んだ。ある伝説では、ブラッディ・ナイフは戦いに望む前、太陽を仰ぎ見て「私は、今日、日が丘の向こうに落ちるのを見ることはできないだろう」と呟いたという。ブラッディ・ナイフは、マーカス・リノの部隊に配属された。リノは、ブラッディ・ナイフたちアリカラと、アリカラと同じくスーと敵対していたクロウの斥候隊に、攻撃を命じた。しかし、ブラッディ・ナイフたちが懸念していた通り、数の差は圧倒的であり、リノの部隊は押されだした。この戦いが始まってそれほどの時間もたたないうちに、ブラッディ・ナイフは頭部を撃たれた。即死であった。 ブラッディ・ナイフの真隣にいたリノは、ブラッディ・ナイフから吹き出した血をまともに浴びたという。混乱したリノは退却を命じた。退却は成功したが、混乱状態で発せられた命令は、部隊の混乱をも引き起こし、多くの兵が犠牲となった。カスターの部隊は、より酷い被害であり、カスター自身も戦死するなど、アメリカ軍は大きな敗北を喫した。 デビッド・ハンフリーズ・ミラー(英語版)の手記によれば、戦いの生還者や目撃者、ブラッディ・ナイフの遺族は「ゴールがブラッディ・ナイフを殺した」と主張したという。ただし、この戦にゴールが参加していたことは事実だが、彼の手記以外に、ゴール自らがブラッディ・ナイフを殺したという記録は出てこない。その後、ジョン・ギボンの部隊が到着し、リノの部隊は九死に一生を得た。ギボンの部隊は、空となったスーの住まいの中で、ブラッディ・ナイフの頭皮を発見した。これらの遺物は1876年6月27日に戦場に埋葬された。その後、彼はノースダコタ州ホワイトシールド近くの斥候隊の墓地に、新たに埋葬された。
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リトルビッグホーンの戦い
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「ブラックヒルズ戦争」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説
「リトルビッグホーンの戦い」を参照 カスターと第7騎兵隊はダコタ部隊から離れて、ローズバッドとビッグホーン川渓谷を偵察するよう命令された。6月25日、この部隊はリトルビッグホーン川西岸でスー族、シャイアン族、アラパホー族の大集落を奇襲し、これに失敗して全滅した。
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リトルビッグホーンの戦い
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「モンタナ州の歴史」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説
リトルビッグホーンの戦いは、カスターの最後の立所(Custer's Last Stand)やカスター虐殺とも呼ばれ、当時の先住民の呼び方ではグリーシー・グラスの戦いとも呼ばれた。これはラコタ族と北部シャイアン族の連合軍とアメリカ陸軍第7騎兵隊の間の武装闘争だった。1876年6月25日から26日にモンタナ準州東部リトルビッグホーン川の近くで起こった。 何千ものインディアンがその居留地から逃げ出した。軍隊の指揮官達は3隊に分かれた遠征隊を組織して彼等を集め居留地に戻す計画を立て、歩兵と騎兵さらにはガトリング砲(機関銃の一種)を含む砲兵の小さな分遣隊を使った。カスターの部隊は6月24日の夜に今はモンタナ州となっているリトルビッグホーン川の東14マイル (23 km)の見通しの良い場所に到着した。テリーとギボンの部隊はリトルビッグホーン川河口に向かっていた。 戦闘開始からおよそ3時間の間に、カスターの部隊は全滅した。第7騎兵隊の2名のみがカスターがインディアンと戦っているのを目撃したと後に報告した。若いクロウ族でカーリーという名の者と、ピーター・トンプソンという騎兵がカスター部隊の背後に倒れていたが、カスター隊の最後の瞬間の証言は不確実なものである。ラコタ族の証言に拠れば、クレイジー・ホースが自らラコタ族の大集団を率いて騎兵隊を圧倒したと言っていた。正確な数は不明であるが、北部シャイアン族とラコタ族の勢力比は約3対1と推計されており、戦闘のある場面では5対1にまで拡がっていたと言われる。 ラコタ族は同盟者であるアラパホ族やシャイアン族と共にリトルビッグホーンの戦いで第7騎兵隊を破り、258名の兵士を殺害し、連隊の損失率は50%以上になった。しかし、その3年後のアフリカはイサンドルワナにおけるズールー族のイギリスに対する勝利と同様、犠牲が多くて割の合わない戦いになった。ラコタ族はその後の一連の戦闘で補強されたアメリカ陸軍に敗れ、居留地に追い返され、バッファローの狩りは止められ、「友好的な者」のみに政府が行う食料配給政策に従わされた。ラコタ族は1877年にブラックヒルズ地区を合衆国に譲渡する条約に署名させられたが、小規模の戦闘状態が継続し、最終的には14年後、スタンディングロックでシッティング・ブルの殺害(1890年12月15日)と、パインリッジでのウンデット・ニーの虐殺(1890年12月29日)ということになった。
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リトルビッグホーンの戦い
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「マーカス・リノ」の記事における「リトルビッグホーンの戦い」の解説
リノは1876年6月のリトルビッグホーンの戦いではカスターの下で最高位の士官だった。カスター隊はリトルビッグホーン川(インディアンの呼び名はグリージーグラス川)そばに野営する、ダコタとラコタのスー族、シャイアン族、アラパホー族総勢1500人のティーピー野営を見つけ、これを攻撃する計画を立てた。(リトルビッグホーンの戦い) インディアン斥候のもたらす、インディアンたちの野営の規模が明らかになるにつれ、リノはカスターに対して慎重な行動をとるよう進言した。これはリノだけでなく、リー族(アリカラ族)のブラッディ・ナイフ酋長や、スー族と白人の混血斥候のミッチ・ブイエ、またクルック将軍ら周囲が口を揃えてカスターに忠告したことだった。インディアン側は、彼らの斥候の報告によって、前の日からカスター隊を把握していた。攻撃はギボン隊など全部隊が揃ってから、26日に行うこととなった。 一方、カスターはこれら経験豊かな軍人たちの忠告に全く耳を貸さず、25日になると、クルック将軍らの部隊の到着を待つこともせず、独断でリノに3個中隊を率いて南端からインディアン一大野営地を襲えと命令した。これと同時にカスター隊は5個中隊を率いて、リトルビッグホーン川(グリージーグラス川)の右岸側へ渡り、北へ進んで東側から野営地を襲うことになった。カスターは3個中隊をフレデリック・ベンティーン大尉に預け、インディアンたちの野営地の南方に移動して、インディアンが南に逃げるのを遮るよう命令した。トマス・マクドーガルの中隊には、弾薬や物資を積んだ輜重隊を連れてこいと命令した。 正午ごろ、リノはまず、一大野営地の南端に野営していたハンクパパ・スー族を奇襲した。しかしすぐにクレイジー・ホースらオグララ・スー族が加勢してきて反撃し、予想に反して四方に散開した。リノは部隊に馬を下り、散開線を布くよう命令したが、直ぐに数百名のインディアンに側面を衝かれたので、リノは川に沿った森林に後退した。 インディアンたちが森の中に進入してきたので、リノはその陣地が維持できないと考え、隊列を乱し、ほうほうの体で急遽川を東へ渡り、対岸の崖上に登って、部隊兵に今日「リノの丘」と呼ばれている所に防御的陣地を形成させた。この時までにリノの部下140名のうち40名が戦死し、13名が負傷、16名は森の中に取り残されていた(ただし、これら見捨てられた者達の大半はなんとかリノ隊に合流できた)。第7騎兵隊に付けられたアリカラ族のブラッディ・ナイフは、リノの横に立っていて頭を撃ち抜かれ、宿敵ゴールに喉を裂かれた。その他の斥候の大半はこっそり逃げ出した。 リノ隊が攻撃を受けている間に、ベンティーン大尉が3個中隊を率いてリノの陣地に到着し加勢、その後間もなくマクドーガルの中隊が輜重隊を連れて到着した。散発的な銃弾が丘に向かって放たれていたが、離れた北東で続く激しい銃声はカスターが激闘していることを示していた。ここで何故リノとベンティーンが前進してカスター隊に合流しようとしなかったかが、今でも熱い議論になっている。ベンティーンの下でD中隊長だったウェア大尉は3マイル(約5km)向こうのカスター隊の戦闘に加わろうと、今日「ウェアの地点」と呼ばれる高い崖に部隊を率いて行ったが、間もなく激しい攻撃にあって、命からがら安全地帯のリノの陣地まで戻った。 インディアン達はカスター隊を全滅させた後、リノの丘より高い、遮るもののない地形を占めて、暗くなるまで兵士達に銃弾を注ぎ続けた。リノとその部隊はカスター隊に起こった事を知る術も無かった。銃撃は翌朝夜明けに再開され、午後遅くまで続いたが、このころ兵士達は遠くのインディアンのティーピーが片づけられ、彼らが立ち去るのが分かった。翌27日の朝、残っていた部隊は川に近付くことができ、そこでアルフレッド・テリー将軍とジョン・ギボン大佐の部隊に落ち合うことができた。リノ部下のうち13名がこの戦闘における勇敢さで名誉勲章を受章した。
※この「リトルビッグホーンの戦い」の解説は、「マーカス・リノ」の解説の一部です。
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固有名詞の分類
インディアン戦争 | スー族 サンドクリークの虐殺 リトルビッグホーンの戦い スタンウィックス砦条約 テクムセの呪い |
アメリカ合衆国の戦闘 | モガディシュの戦闘 サンドクリークの虐殺 リトルビッグホーンの戦い シャトーゲーの戦い クライスラー農園の戦い |
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