虐殺のあととは? わかりやすく解説

虐殺のあと

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 10:22 UTC 版)

ウォシタ川の戦い」の記事における「虐殺のあと」の解説

白人側でどのような議論があろうと、シャイアン族にとってはカスターこの所業は隠れもない大虐殺」だった。なにより合衆国はこの虐殺の後、「酋長盟約してインディアン言うことを聞かない」という、白人側の勝手な思い込みによって、インディアン部族和平会談持とうしなくなった。以後合衆国は、彼らの侵略に対してインディアンたちが武器取って立ち向かおうものなら問答無用最新鋭重火器でこれに攻撃加え部族そのもの保留地おしこめるという民族浄化をさらに激化させていったのである一方シャイアン族は「サンドクリークの虐殺」と併せたこの虐殺決し忘れなかった。8年後、彼らは宿敵カスターを「リトルビッグホーンの戦い」で打ち破ったが、この際死んだカスターの耳に「和平調停がよく聞こえるように」と錐で穴を開けたと現在もシャイアン族伝えているのである

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虐殺のあと

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:01 UTC 版)

サンドクリークの虐殺」の記事における「虐殺のあと」の解説

ブラック・ケトルこのような虐殺受けたにもかかわらず白人との和平望み捨てなかったが、それに不満をもつシャイアン族は当然多数派占めた12月の末には、シャイアン族スー族とアラパホー族の3部族の戦士2000人がレパブリカン川(英語版)そばで協議開き白人侵略者対す徹底抗戦決定した。その一人はこういった。 我々は何のために生きていかねばならないのか? 白人どもは我々の国を奪い、我々の狩の獲物殺したそれだけでも飽き足らず、妻や子までも殺してしまった。これ以上おとなしくはしておられない。我々は死ぬまで戦うのだ。 この決起に際してシャイアン族命を捨てて白人闘う集団、「戦士ドッグ・ソルジャー)」が立ち上がった1月インディアン戦士団ランキン砦の騎兵隊おびき出し45名ばかり兵士殺した。彼らは白人兵士に、彼らがされたのと同じ行為お返しをした。つまり、兵士死体ズタズタ切り裂いたのである。また砦周辺牧場襲って白人殺し牛馬奪ったまた、誰もがチヴィントンを讃えたわけではなかった。議会調査団派遣した調査団報告いくつかは、議会震撼させた。彼らは大虐殺現場訪れ、「乳歯がまだ抜けてもいない幼児の頭を拾った上院議員のうちの1人は、この問題に関して公然とコロラドエバンス州知事とチヴィントン糾弾決意し委員会招待市民をデンバー・オペラ下院集めた議論の中で、次のような質問起こされた。「今後は、インディアンを“教化する”のか。単純に彼らを皆殺しにしようとすることは、最良なのか?」 チヴィントンの「英雄行為」の真相明らかになるにつれ、東部白人社会世論一変し、チヴィントン非難の声が高まったユリシーズ・グラント将軍は、コロラドエバンズ知事対し、「これは合衆国庇護下にあるインディアン対す連邦軍謀殺以外のなにものでもない」と認めている。陸軍法務部長ジョゼフ・ホルトは、憤り露わにこう発言した。 これは卑怯かつ冷酷な虐殺であり、加害者には拭い去れない汚名着せアメリカ人一人一人の顔に恥辱憤激塗りつけるには十分なものだ。 白旗掲げた和平派インディアン虐殺した行為軍事裁判かけられることとなり、チヴィントンは名声失って不遇のうちに没したこのような状況鑑み合衆国政府1867年議会に「インディアン和平委員会」を設立したサンドクリークの虐殺対すシャイアン族怒りすさまじかった合衆国8000人の軍隊を、南北戦争から引き揚げてこの西部の地に派遣することとなった白人が望む「和平」を受け入れたインディアンは、米軍によって虐殺された。合衆国は「和平」を拒絶したインディアンたちも、合衆国軍事力によって強制的に絶滅させられる決定したのである。この虐殺生き残ったブラックケトル和平望みはついに叶わず、この四年後にウォシタ川の虐殺で、カスター中佐第七騎兵隊によって、再び虐殺を受け、殺されてしまうのである上院議員らの委員会はチヴィントンに対して、なんの効力もなかった。チヴィントンは裁判失脚したが、その「名声」と「功績」が消え去ったわけではなかった。セオドア・ルーズベルトは、サンドクリークの大虐殺評して以下のような発言行っている。 これほどまでに、まさしく正当で、有益な行いが、フロンティア起こったのです。

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虐殺のあと

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 23:25 UTC 版)

ウンデット・ニーの虐殺」の記事における「虐殺のあと」の解説

12月30日の朝、ブラック・エルクたち保留地スー族ウーンデッド・ニー向かった。ホワイトクレイ・クリークのそばのキリスト教伝道所近くですでにスー族同胞による戦闘始まっており、両岸待機したスー族川沿い下ってくる米兵攻撃していた。伝道所白人尼僧たちは、負傷したスー族の手当て行ったスー族攻撃米兵圧倒して優位に戦い進めたが、やがて米兵側に「黒いワシチュー(黒人兵)」の一団戦闘加入しスー族退却した。 この大量虐殺インディアン側の死者300人近く上り豪雪のなか死体3日放置された。重傷負った部族女性は、治療のために「ゴースト・シャツ」を脱がせてよいかとの白人医師問いうなずき、「弾丸通らないと言われていたのに。もうこんなものはいらない」と答えたとされる[要出典]。インディアン自由な世界が還って来るとされるゴースト・ダンスは、この大虐殺機に一挙に下火になっていった。兵士たちは、亡くなったインディアンたちから衣服記念品剥ぎ取った。「ゴースト・シャツ」を制服の下に着込んでみる者もいた。 1891年1月1日埋葬隊が派遣された。銃座置かれた丘の上に、ひとつだけ穴が掘られた。彼らの遺体一人あたり2ドルの手間賃で、民間人アルバイトによってこのひとつだけ開けられた土の中へ投げ込まれた。 このビッグ・フット・バンドの死者数に関しては、虐殺した側と虐殺された側とで証言食い違っている。白人側は150人から多くて200程度だとし、スー族側は約300人、またそれ以上の数[要追加記述]を挙げる向きもある。どちらにしろ、合衆国政府側は殺したスー族上記のように扱って、その数を記録しなかったし、未だ十分な検証行われていない[要出典]。 虐殺生き残ったブラック・エルク後年ウーンデッド・ニーの虐殺についてこう書き残している。 この高い丘に立つと昔を思い出す。うねった谷のあちこち殺された女や子どもが積み重なっていたんだあの光景は忘れられない。それに、死んだものはもうひとつある。血に染まった土のなかで息絶え吹雪埋もれてしまった。皆の夢が死んだんだ。美しい夢だったよ。

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