虐殺のあと
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白人側でどのような議論があろうと、シャイアン族にとってはカスターのこの所業は隠れもない「大虐殺」だった。なにより、合衆国はこの虐殺の後、「酋長と盟約してもインディアンは言うことを聞かない」という、白人側の勝手な思い込みによって、インディアン部族と和平会談を持とうとしなくなった。以後合衆国は、彼らの侵略に対してインディアンたちが武器を取って立ち向かおうものなら、問答無用で最新鋭の重火器でこれに攻撃を加え、部族そのものを保留地におしこめるという民族浄化をさらに激化させていったのである。 一方、シャイアン族は「サンドクリークの虐殺」と併せたこの虐殺を決して忘れなかった。8年後、彼らは宿敵カスターを「リトルビッグホーンの戦い」で打ち破ったが、この際、死んだカスターの耳に「和平の調停がよく聞こえるように」と錐で穴を開けたと現在もシャイアン族は伝えているのである。
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虐殺のあと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:01 UTC 版)
「サンドクリークの虐殺」の記事における「虐殺のあと」の解説
ブラック・ケトルはこのような虐殺を受けたにもかかわらず、白人との和平の望みを捨てなかったが、それに不満をもつシャイアン族は当然多数派を占めた。 12月の末には、シャイアン族とスー族とアラパホー族の3部族の戦士2000人がレパブリカン川(英語版)そばで協議を開き、白人侵略者に対する徹底抗戦を決定した。その一人はこういった。 我々は何のために生きていかねばならないのか? 白人どもは我々の国を奪い、我々の狩の獲物を殺した。それだけでも飽き足らず、妻や子までも殺してしまった。これ以上おとなしくはしておられない。我々は死ぬまで戦うのだ。 この決起に際して、シャイアン族は命を捨てて白人と闘う集団、「犬の戦士(ドッグ・ソルジャー)」が立ち上がった。1月、インディアン戦士団はランキン砦の騎兵隊をおびき出し、45名ばかりの兵士を殺した。彼らは白人兵士に、彼らがされたのと同じ行為でお返しをした。つまり、兵士の死体をズタズタに切り裂いたのである。また砦周辺の牧場を襲って白人を殺し、牛馬を奪った。 また、誰もがチヴィントンを讃えたわけではなかった。議会は調査団を派遣した。調査団の報告のいくつかは、議会を震撼させた。彼らは大虐殺の現場を訪れ、「乳歯がまだ抜けてもいない幼児の頭を拾った」上院議員のうちの1人は、この問題に関して公然とコロラドのエバンス州知事とチヴィントン糾弾を決意し、委員会と招待市民をデンバー・オペラ下院に集めた。議論の中で、次のような質問が起こされた。「今後は、インディアンを“教化する”のか。単純に彼らを皆殺しにしようとすることは、最良なのか?」 チヴィントンの「英雄行為」の真相が明らかになるにつれ、東部白人社会の世論は一変し、チヴィントン非難の声が高まった。ユリシーズ・グラント将軍は、コロラドのエバンズ知事に対し、「これは合衆国の庇護下にあるインディアンに対する連邦軍の謀殺以外のなにものでもない」と認めている。陸軍法務部長ジョゼフ・ホルトは、憤りも露わにこう発言した。 これは卑怯かつ冷酷な虐殺であり、加害者には拭い去れない汚名を着せ、アメリカ人一人一人の顔に恥辱と憤激を塗りつけるには十分なものだ。 白旗を掲げた和平派のインディアンを虐殺した行為は軍事裁判にかけられることとなり、チヴィントンは名声を失って不遇のうちに没した。このような状況を鑑み、合衆国政府は1867年に議会に「インディアン和平委員会」を設立した。 サンドクリークの虐殺に対するシャイアン族の怒りはすさまじかった。合衆国は8000人の軍隊を、南北戦争から引き揚げてこの西部の地に派遣することとなった。白人が望む「和平」を受け入れたインディアンは、米軍によって虐殺された。合衆国は「和平」を拒絶したインディアンたちも、合衆国の軍事力によって強制的に絶滅させられると決定したのである。この虐殺を生き残ったブラックケトルの和平の望みはついに叶わず、この四年後にウォシタ川の虐殺で、カスター中佐の第七騎兵隊によって、再び虐殺を受け、殺されてしまうのである。 上院議員らの委員会はチヴィントンに対して、なんの効力もなかった。チヴィントンは裁判で失脚したが、その「名声」と「功績」が消え去ったわけではなかった。セオドア・ルーズベルトは、サンドクリークの大虐殺を評して以下のような発言を行っている。 これほどまでに、まさしく正当で、有益な行いが、フロンティアで起こったのです。
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虐殺のあと
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「ウンデット・ニーの虐殺」の記事における「虐殺のあと」の解説
12月30日の朝、ブラック・エルクたち保留地のスー族はウーンデッド・ニーに向かった。ホワイトクレイ・クリークのそばのキリスト教伝道所の近くですでにスー族同胞による戦闘は始まっており、両岸に待機したスー族は川沿いに下ってくる米兵を攻撃していた。伝道所の白人尼僧たちは、負傷したスー族の手当てを行った。スー族の攻撃は米兵を圧倒して優位に戦いを進めたが、やがて米兵側に「黒いワシチュー(黒人兵)」の一団が戦闘加入し、スー族は退却した。 この大量虐殺でインディアン側の死者は300人近くに上り、豪雪のなか死体は3日間放置された。重傷を負った部族員女性は、治療のために「ゴースト・シャツ」を脱がせてよいかとの白人医師の問いにうなずき、「弾丸が通らないと言われていたのに。もうこんなものはいらない」と答えたとされる[要出典]。インディアンの自由な世界が還って来るとされるゴースト・ダンスは、この大虐殺を機に、一挙に下火になっていった。兵士たちは、亡くなったインディアンたちから衣服や記念品を剥ぎ取った。「ゴースト・シャツ」を制服の下に着込んでみる者もいた。 1891年1月1日、埋葬隊が派遣された。銃座が置かれた丘の上に、ひとつだけ穴が掘られた。彼らの遺体は一人あたり2ドルの手間賃で、民間人アルバイトによってこのひとつだけ開けられた土の中へ投げ込まれた。 このビッグ・フット・バンドの死者数に関しては、虐殺した側と虐殺された側とで証言が食い違っている。白人側は150人から多くて200人程度だとし、スー族側は約300人、またそれ以上の数[要追加記述]を挙げる向きもある。どちらにしろ、合衆国政府側は殺したスー族を上記のように扱って、その数を記録しなかったし、未だ十分な検証も行われていない[要出典]。 虐殺を生き残ったブラック・エルクは後年、ウーンデッド・ニーの虐殺についてこう書き残している。 この高い丘に立つと昔を思い出す。うねった谷のあちこちに殺された女や子どもが積み重なっていたんだ。あの光景は忘れられない。それに、死んだものはもうひとつある。血に染まった土のなかで息絶え、吹雪に埋もれてしまった。皆の夢が死んだんだ。美しい夢だったよ。
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