虐殺の後
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翌朝、バトラーはブラントと幾らかのレンジャーを村に派遣して、その破壊を完成させた。襲撃隊は70人を捕虜に取り、その多くは女性と子供だった。バトラーはその内の40人を逃がすことができたが、残りは捕獲者の村に配分され、交換されるまでそこに留まることになった。ステイシー中佐はイギリス軍の戦争捕虜としてナイアガラ砦に連れて行かれた。 モホーク族の酋長は(ブラント)チェリーバレーでの行動を正当化するために、アメリカ軍の士官に宛てて、「あなた達は我々の家を焼いた。それが我々とその兄弟であるセネカ族インディアンを怒らせたので、我々はチェリーバレーで男性、女性、子供達を破壊した。」と記していた。セネカ族は「今後誤って告発されるようなことは無い、さもなければもう一度敵と戦うと宣言」した。この宣言の後半は今後慈悲を示すことを拒否する意志の表れだった。バトラーは、「女性や子供を救おうと細心の注意を払い努力したにも拘わらず、野蛮人の怒りの前に彼等が犠牲になるのを防げなかった」が、襲撃の間大半の時間を砦の見守りで過ごしていたのも事実だった。ケベックのフレデリック・ハルディマンド総督は、バトラーがその部隊を抑えられなかったことに動揺したので、バトラーとの会見を拒否し、「対戦した敵が恥知らずで残酷な者であったとしても、このような無差別の報復を行えば、無用で恥ずべきものである。彼等がそのために戦っている国王の気性や原則にも背くものである」と書き送った。バトラーは後の書面で、この日の出来事について責任は無いと主張し続けた。 1778年のフロンティア戦争が激しくなったので、大陸軍は対抗策を採った。チェリーバレーのことは、ワイオミングで非戦闘員を殺したという告発と共に、1779年のサリバン遠征を立ち上げる道筋を付けた。この遠征は総司令官のジョージ・ワシントン将軍が発令し、ジョン・サリバン少将が遠征隊を率いた。この遠征ではニューヨーク中部と西部のイロコイ族領土にあった40以上の集落を破壊し、女性や子供をナイアガラ砦の避難所に追いやった。しかし、これでフロンティア戦争は終わらず、1780年には新たに厳しさを増して再開された。
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虐殺の後
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「レッド川北支流の戦い」の記事における「虐殺の後」の解説
マッケンジーの奇襲作戦が成功してから間もなく、コマンチ族戦士のモウウェイとパラオクーム(ブル・ベア)らのバンドがウィチタにあるBIA(インディアン管理局)の出先機関であるインディアン代理局近くに移動させた。インディアン捕虜の中にその家族も含まれていたノコニ・コマンチの酋長ホースバックは、盗んだ家畜やクリントン・スミスを含む白人捕虜と、部族の女性や子供とを交換させるよう取引した。 この虐殺は「軍事行動」として正当化され、アメリカ合衆国が初めてコマンチェリアの心臓部でコマンチ族を攻撃して成功したこととなり、リャノ・エスタカードはもはやコマンチ族が安心して暮らせる場所ではないことを示した。 さらにこの虐殺は、米軍が「野蛮な」コマンチ族を保留地に強制移住させようと考えるならば、彼らの生活の場を徹底破壊するべきであり、「インディアンはもはや保留地の外では生きて行けない」ということを証明した。マッケンジーの戦術はウィリアム・シャーマンが、1874年の「レッド川戦争」で、さらにこの焦土作戦を徹底させる成功前例となった。1874年に起こったパロデュロ・キャニオンにおけるコマンチ族集落へのマッケンジーの攻撃と、トゥール・キャニオンにおけるコマンチ族の馬群の破壊は、この戦闘をそっくりそのまま写したものであった。
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