虐殺の真相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/08 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「虐殺の真相」の解説
このウィリアム・ヘンリー砦の跡地には、イギリスは何も再建しようとせず、200年ほど、砦の残骸がそのままになっていた。1950年代になって、この砦の発掘調査が始まり、最終的には、ジョージ湖を訪れる観光客の目的地として、ウィリアム・ヘンリー砦の再建がなされるにいたった。 この当時の北米植民地を考える上で、インディアンによる略奪行為が注目される。実際、彼らに抵抗した人々は殺され、その人数は定かではないが、「虐殺」という表現が用いられている。後の捕虜の解放は、一般に公表されたのと同じものとは限らない。戦闘とそれに続く殺戮とは、ジェームズ・フェニモア・クーパーの1826年の小説『モヒカン族の最後』とその映画化作品とで描かれているとおりである。クーパーの戦闘に関する記述は、多くの不正確な部分があるが、彼の作品や、ベンソン・ロッスィングやフランシス・パークマンといった、昔の研究者により、戦闘において時にぞっとするような記述は、実際よりもより多くの人が死んだのだと思わせることになる。ロッスィングは「1,500人の人々が殺され、あるいは絶望的な捕虜の身となった」というのは、殺された人数よりも捕囚された人数の方が多く、その捕虜の多くが結局は釈放されたということである、と書いている。 インディアンの責任をどこに帰するのかについては、歴史家の間でも意見が分かれる。フランシス・ジェニングスは、モンカルムは何が起きるかを予期しており、起こったことに対しては意図的に無視して、悪逆無道な行為がおさまって、いい方向に進み出してから足を踏み入れたと主張する。また、ブーゲンビルが8月9日の夜にモントリオールを出て、その時点では虐殺の現場に居合わせなかったにもかかわらず、その事件を隠蔽するような文章を書いて、モンカルムを擁護しているとも言っている。パークマンは、モンカルム擁護により熱心で、彼と士官たちとは、蛮行を防ぐためにできることをしたが、猛攻撃を阻止するには力が足りなかったとしている。 イアン・スティールは、この記録を支配するのは、2つの主要な考えであると注記している。一つはモンカルムによってまとめられた記録で、降伏の条件や、ウェッブやルードゥーンへの手紙などで、フランスとイギリス両国の植民地やヨーロッパに広く受け入れられている。もう一つは1778年に、ジョナサン・カーヴァーによって出版された書物である。カーヴァーは冒険家で、マサチューセッツの民兵としての従軍経験があり、この戦いにも参加していた。スティールによれば、カーヴァーの原文には、裏付けとなる分析も根拠もなしに、1,500人にも及ぶ人々が「殺され、または捕虜となった」と書かれている 。1822年に出版された、イェール大学総長のティモシー・ドワイトの遺作には、明らかに「ウィリアム・ヘンリー砦の虐殺」という表現が作りだされており、カーヴァーの著作をもとにしている。この2冊は恐らくはクーパーに影響を与えている。そして、インディアンたちの犯罪に関して、モンカルムに責めを負わせる傾向がある 。 スティールは、虐殺の根本的な理由について、より含みのある考えを取り入れている。モンカルムと、フランスの指揮官たちとは、インディアンたちと、何度も勝利の勲章として、略奪、頭皮をはぐこと、そして捕虜を連れ去ることを約束していたというのである 。サバスデイポイントの戦いのあとで、捕虜は身代金を払って釈放され、インディアンたちは目に見える形での勲章を得られなかった。ウィリアム・ヘンリー砦の降伏条件では、事実上、インディアンたちの略奪の大きな機会は否定された。食糧はフランス軍に奪われ、兵士たちの身の回りの物は、イギリス軍の支配下に置かれたままで、インディアンの取り分は何もなかった。スティールによれば、フランス軍が敵であるイギリス軍と共謀して、友人(インディアン)に、何らめぼしい勲章を残さないように仕組んだと考え、そのうっぷんが積もったのだとしている。 歴史家のウィリアム・ネスターによれば、この戦いの間、多くのインディアンの部族が戦闘に参加した。ある者たちは数名の、個々の兵として参加しただけだったが、別の者たちはフランス軍に参加するために、ミシシッピ川やハドソン湾のような遠方から来た者もいた。ネスターが言うには、病人を殺すことや頭皮を剥ぐこと、あるいは遺体を掘り返してまで略奪をしたり頭皮を剥いだりしたために、インディアンたちが天然痘にかかり、集落に戻っていった。この天然痘による惨状は、後の、フランスの軍事行動へのインディアンの参加に影響を与えたとされる 。
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