虐殺の計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 08:30 UTC 版)
戦間期のルーマニアでは、共産主義はユダヤ人の主導によるものであると信じられており、ルーマニア政府はソ連に対しての戦争を「ユダヤのボリシェビズム」を「全滅」させるための戦いと称して、反ユダヤ主義を盛んに宣伝した。バルバロッサ作戦と呼ばれたソ連侵攻は、1941年6月22日に開始される予定であった。ソ連国境近くに位置しユダヤ人人口の多いヤシは、作戦上邪魔になると考えられ、当時のルーマニアの独裁者であるイオン・アントネスクは、ヤシのユダヤ人を、ルーマニアの戦争努力を脅かす第五列とみなしていた。1941年6月中頃、アントネスクは、モルダヴィアにあるユダヤ人共産主義者の喫茶店をすべて閉鎖させ、各地域におけるユダヤ人、共産党員、その支持者を特定することを命じた。また、同年6月21日には、シレト川とプルト川の間の地域に住む18歳から60歳までのユダヤ人を、ルーマニア南部のトゥルグ・ジウにある強制収容所へ移送するよう求める法令に署名した。ソ連侵攻を目前に控えたルーマニア、ドイツ両軍の将校は、ソ連国境付近に住むユダヤ人を内部の安全保障上の脅威とみなし、ルーマニア政府にこの脅威を取り払うよう圧力をかけた。ルーマニアの国家機密情報機関として知られる特別情報部隊 (Serviciul Special de Informații, SSI) のトライアン・ボルチェスク中佐は後に次のような証言している。 私が確かだといえるのは、最高本部の第二部門が、各統計局の支援のもと、モルダヴィアのユダヤ人移送問題に関与していること、ゲオルゲ・ペトレスク大佐がその担当だったことである。 ルーマニア最高本部の第二部門は、国内の政党、少数民族をすべて監視下に置いていた。したがって虐殺の責任は、第二部門とSSI、そしてドイツのアプヴェーアにあるといえる。1941年6月22日にソ連侵攻が始まると、SSIは戦争を妨害する可能性のある、内部安全上の脅威を取り除くため、男性160人から構成される第一諜報部隊を組織した。ボルチェスク中佐はこう振り返る。 第一諜報部隊の非公式で機密の目的の1つとして、モルダヴィアのユダヤ人を国外追放や虐殺によって排除することがあった。SSIの責任者、フロリン・ベチェスク=ジョルジェスクは、ブカレストを離れる際、この目的を完遂するため、ユダヤ人や共産党員についての資料を持って行った。部隊は、ヤシから同じくユダヤ人虐殺が行われたキシナウまで、車で移動した。キシナウで行われた虐殺も、ヤシと同じSSIのチームが行ったのである。この部隊は、ティギナやティラスポリでは強盗を犯し、オデッサでも虐殺を行った。 バルバロッサ作戦が開始された当日、ヤシの警察は、1941年1月に起こったクーデター未遂により収監されていた鉄衛団のメンバーを釈放した。解放されたレジオナーレ(鉄衛団構成員)らは警察の指揮のもと、武器を与えられた。鉄衛団は激しい反ユダヤ主義で知られており、投獄されていた鉄衛団員の解放は、ヤシのユダヤ人に対して当局が攻撃を企てているということを示唆するものであった。1941年6月24日、ヤシはソ連空軍による空爆に見舞われた。空襲による被害はほとんどなかったが、ヤシのユダヤ人は皆共産党員であり、ソ連の爆撃機を誘導するため、ビーコンを点灯させたという噂が急速に広まり、混乱を巻き起こした。6月26日は二度目となる爆撃が行われ、今度は町に大きな被害が発生し、ユダヤ人38人を含む約600人が死亡した。この空襲の後にも、ユダヤ人がソ連の見方をした第五列であるという噂が広まった。同日、アプヴェーアのヘルマン・フォン・ストランスキー少佐とSSIのイオネスク・ミカンドル大佐がヤシに到着した。彼らは戦後の裁判で、虐殺の扇動者とみなされている人物である。1941年6月27日、ルーマニアの指導者、イオン・アントネスクは、ヤシ駐屯地の指揮官であるコンスタンティン・ルプ大佐に電話をかけ、「ヤシのユダヤ人を排除する」よう正式に指示した。ただし、虐殺の計画は、上記の通りさらに早い段階から行われていた。 ソ連の落下傘兵がヤシの郊外に降り立ち、ユダヤ人と協力しているという噂が、国営の報道機関の暗躍もあり、拡散した。そして、虐殺の1週間前には、一層ユダヤ人排斥が強まることとなる。キリスト教徒の家には十字架が描かれる一方で、ユダヤ人男性はユダヤ人墓地に大きな溝を掘らされ、さらに何か証拠を見つけ出しては兵士がユダヤ人の家に押し入るようになった。6月27日、当局はユダヤ人コミュニティを妨害行為で正式に非難し、虐殺を率先する兵士や警察を集め出した。彼らは、ユダヤ人が路上で兵士を攻撃しているという嘘を伝えられた。 ヤシ出身のユダヤ人生存者、マルチェルは当時の状況を下記のように述べている。 ユダヤ人にとっての本当の危険は、1941年6月29日に始まったことを記憶している。これにはユダヤ人皆が非常に驚いていて、我々は服に黄色いダビデの星をつけることを義務づけられた。我々はそれ以来、食べ物を売り買いすることも、特定の時間公共の場に出ることも許されなくなった。当時ユダヤ人が隠れている地下室があり、警察はこの地下室を探し出すのに苦戦していた。そのため、我々を食糧配給におびき出すことを目的に、「無料」と書かれた一種のチケットをユダヤ人地区で配った。ユダヤ人たちは、食糧配給に出向けば自由が得られ、再び商品が買えるようになると考えた。しかしそれは罠で、我々は自由を得る代わりに死と向き合うことになったのだ。
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