戦後の裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 10:17 UTC 版)
「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の記事における「戦後の裁判」の解説
ロズマン リュブリャナのグレゴリー・ロジュマン(Gregorij Rožman)司教は「ユーゴスラビアで「利敵協力」した罪で「欠席裁判」で1946年8月に軍事裁判で裁かれた最初の司教となった。この裁判はスロベニア最高裁判所によって2007年に取り消しとされた。イギリスの占領政権は「彼が逮捕されウスタシャの協力者」として拘留する事を要求していた。フェイヤーは彼の裁判が「ステピナツに対する手続きの為の準備運動」であり、ロジュマンが有罪判決を受けた後にステピナツが逮捕されたと見ている(ロズマンはアメリカ合衆国で安全な所を与えられ、そこでこの世を去った)。 ステピナツ アロイジエ・ステピナツ大司教はウスタシャ政府を支持した容疑、正教徒のセルビア人への強制改宗を促した容疑、そしてユーゴスラビアでのウスタシャの抵抗活動を励ました容疑で起訴された。フェイヤーはステピナツが(彼は裁判中黙秘したままだった)彼自身を強制改宗を支持した容疑から弁護することが出来たが、残りの二つについては弁護出来なかったと論じる。ステピナツは懲役16年の有罪判決を受けた。彼は自宅軟禁に減刑される前にレポグラヴァ刑務所(Lepoglava prison)で5年間服役した。 ピウス12世は1952年にステピナツを枢機卿会に昇進させた。フェイヤーはステピナツの有罪判決を「見せ物裁判」だとする批判に部分的に同意するとしても、彼がウスタシャ体制を支持していた容疑は当然誰もが知っていて当然真実だったということ、そしてもしステピナツが彼に掛けられていた容疑に応答していたならば、彼の弁護は必然的に瓦解しバチカンが虐殺を行っていたパヴェリッチを支持していたことが必ず明るみに出ていただろう」とフェイヤーは述べている。最も有罪の証拠となったのは、ステピナツはウスタシャの公文書、ウスタシャにとってクロアチアの権力を奪い返す上で決定的となる書類、ウスタシャの戦争犯罪人に対する有罪とする情報を大量に含んでいた書類を彼の教区に蓄えさせていたことだった。 ステピナツは1953年に故郷のクラシッチ村に輸送され、7年後に自宅で帰天した。1998年には、教皇ヨハネ・パウロ2世が彼を列福した。
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