戦後の評価とは? わかりやすく解説

戦後の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:47 UTC 版)

アッツ島玉砕」の記事における「戦後の評価」の解説

アッツ島玉砕』は最もよく知られ戦争画一つであると評価されている。美術の窓1991年9月号に、評論家美術関係者ジャーナリストの計58名による戦争画に関するアンケート掲載された。アンケートの中で約8割が戦争画の中で芸術的に評価できる作品があると回答し評価する戦争画家トップ藤田嗣治、そして評価できる作品としては宮本三郎の『山下パーシバル中将会見図』、中村研一の『「コタ・バル』、藤田の『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』、小磯良平の『娘子関を征く』が挙げられた。 椹木野衣は、戦前期今泉篤男尾川多計による評価のように、藤田戦争画には意外なほど内面感じさせるものがなく、『アッツ島玉砕』は凄惨な光景描きながらも意外とすっきりしていると評価している。また椹木は『アッツ島玉砕』はある意味超現実的な次元達していて、「密室における大量猟奇殺人」を思わせる描写は、戦争記録戦闘美化という戦争画本来の描写通り越し純粋な加害者意識の塊となって制作したように見えるとしている。その結果として軍部目指す聖戦美術としての戦争画期待された、歴史、美、正義無意味さをその土台から暴き出していると評価する戦前期藤田戦争画に関する評価中に暗さ異常性への好み見られるとの評価があり、前述のように田中日佐夫藤田の残酷図好み指摘しているが、菊畑茂久馬は『アッツ島玉砕』は藤田最高傑作名作中の名作称賛し地獄怨霊まで寒からしめると評した上で、「殺戮の大画面歓喜声々をあげ」「画室殺戮者が日ごと夜ごと訪ねて来て、彼(藤田)の職人的描写の筆に触れられ恍惚悲鳴をあげていた」とした。針生一郎の『アッツ島玉砕』の評価は「凄愴苛烈殺し合い光景これでもかこれでもかと書き込みながら、作者の魂は全く関与していない」とした上で、「嗜虐的興味駆られてむごたらしい場面描き」「その評価偏執狂的楽しんでいた」と、内面性の無さ嗜虐性について指摘している。米倉守知人アメリカ人の「藤田負けたけど彼の絵画勝った」との言葉紹介した上で藤田は「技術駆使して単に記録画ではない人間地獄絵図」を描こうとし、「狂うようにのめりこんでいった唯一の戦争画の)絵描き」と評価している。 大塚英志藤田戦争画制作への転換は、純粋に技法的な書き換えレベルのものであり、非政治的な始末が悪い純粋さよるものであるがゆえに、逆に容易かつ躊躇なく政治的なものに染まってしまったと評した。そして「アッツ島玉砕」を始めとする玉砕図は、無邪気にあからさまな凄惨さを描く衝動に従って描いており、その結果として「度が過ぎた戦争画として結実したがゆえに、戦時中戦意高揚絵画として受け入れられたものが、戦後逆に観衆反戦メッセージ受け取られたと分析している。 画家会田誠は『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』を極端なパッションモチーフ選び方が突出していると評価し、『アッツ島玉砕』は日本人戦争歴史人類どうしようもなさのようなものを描き戦場一場面を切り取った戦争画ではなく、もっと無限定な広いものを表現しようとした作品として捉えた

※この「戦後の評価」の解説は、「アッツ島玉砕」の解説の一部です。
「戦後の評価」を含む「アッツ島玉砕」の記事については、「アッツ島玉砕」の概要を参照ください。


戦後の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 17:59 UTC 版)

ハンス・フォン・ドホナーニ」の記事における「戦後の評価」の解説

戦後になってドホナーニ即決裁判死刑判決下したオットー・トアベック(ドイツ語版裁判長ヴァルター・フッペンコーテン検察官対す殺人罪での裁判西ドイツ行われた連邦裁判所控訴裁判所による2度無罪判決棄却したものの、1956年になって即決裁判当時法律によれば合法であり、法に基づく判決であったとして無罪判決下した。これに対して道義上、あるいは法学上の批判巻き起こった2002年連邦裁判所長官ギュンター・ヒルシュ(ドイツ語版)はドホナーニ生誕100周年に際してドホナーニ法的な死に追いやった犯人たちは、ナチス・ドイツ時代5万件の死刑判決下した裁判官誰一人として戦後報復を受けなかったという理由無罪とされた。ドホナーニ裁判について1995年旧東ドイツ法的な不正を裁く裁判の中で、連邦裁判所はこの判決明確に否定している」と述べたイスラエル2003年10月26日アルノルトおよびフリース一家救ったドホナーニ功績称えて諸国民の中の正義の人」に列しヤド・ヴァシェム記念館の壁にドホナーニの名を刻んだ

※この「戦後の評価」の解説は、「ハンス・フォン・ドホナーニ」の解説の一部です。
「戦後の評価」を含む「ハンス・フォン・ドホナーニ」の記事については、「ハンス・フォン・ドホナーニ」の概要を参照ください。


戦後の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/08 05:11 UTC 版)

ドイツ国防軍女子補助員」の記事における「戦後の評価」の解説

1978年ミュンヘン連邦軍大学社会史現代史教授務めていたフランツ・ザイトラーは、著書『Frauen zu den Waffen?』および『Blitzmädchen』の中で、女子補助員の実態調査したまた、補助員らが戦闘支援任務従事する中で、どの時点戦闘員としての自覚持ったのかについても調査した

※この「戦後の評価」の解説は、「ドイツ国防軍女子補助員」の解説の一部です。
「戦後の評価」を含む「ドイツ国防軍女子補助員」の記事については、「ドイツ国防軍女子補助員」の概要を参照ください。


戦後の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/22 06:05 UTC 版)

ローラ・プルサック」の記事における「戦後の評価」の解説

1948年以降プルサックは、コレクションを年に2回発表するようになったプルサックは、「sport-tricot」というタイプ運動着用のメリヤス生地もっぱら扱ったこのため彼女は、1942年以来加盟していたオートクチュール組合から、「クチュール・クレアシオン (Couture-Création)」の資格剥奪された。それでもプルサックは、自らのコレクションを、パリのオートクチュールコレクションの時期合わせて発表し続けた

※この「戦後の評価」の解説は、「ローラ・プルサック」の解説の一部です。
「戦後の評価」を含む「ローラ・プルサック」の記事については、「ローラ・プルサック」の概要を参照ください。


戦後の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 10:17 UTC 版)

竹中彰元」の記事における「戦後の評価」の解説

戦後長らく彰元の存在忘れ去られ1977年真宗大谷派教学研究所編集の『近代大谷派年表』で彰元の名を出した際も、彰元は「大谷派ではなく、「諸宗教」に分類されていた程であった愛知県一宮市円光寺住職大東仁が記した論文仏教者の戦時下抵抗」により竹中の名誉回復運動始まった1990年平成2年4月真宗大谷派名古屋別院開催された『平和展』で彰元の反戦発言展示され以後2002年平成14年)から真宗大谷派岐阜別院の『平和展』でも彰元の事績展示され名古屋別院岐阜別院影響受けて2004年平成16年)より京都東本願寺本山でも『非戦・平和展』でも彰元の事績展示されるようになったまた、岐阜市平和資料室2002年平成14年)の開館当初から彰元を展示している。 2007年平成19年10月19日に、真宗大谷派主催の「復権顕彰大会」が明泉寺にて開催され熊谷恵宗総長謝罪、同宗派処分取り消す「宗派声明」が出され処分から70年目に名誉回復果たした

※この「戦後の評価」の解説は、「竹中彰元」の解説の一部です。
「戦後の評価」を含む「竹中彰元」の記事については、「竹中彰元」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦後の評価」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦後の評価」の関連用語

戦後の評価のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦後の評価のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアッツ島玉砕 (改訂履歴)、ハンス・フォン・ドホナーニ (改訂履歴)、ドイツ国防軍女子補助員 (改訂履歴)、ローラ・プルサック (改訂履歴)、竹中彰元 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS