戦後の評価
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『アッツ島玉砕』は最もよく知られた戦争画の一つであると評価されている。美術の窓1991年9月号に、評論家、美術関係者、ジャーナリストの計58名による戦争画に関するアンケートが掲載された。アンケートの中で約8割が戦争画の中で芸術的に評価できる作品があると回答し、評価する戦争画家のトップは藤田嗣治、そして評価できる作品としては宮本三郎の『山下・パーシバル両中将会見図』、中村研一の『「コタ・バル』、藤田の『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』、小磯良平の『娘子関を征く』が挙げられた。 椹木野衣は、戦前期の今泉篤男、尾川多計による評価のように、藤田の戦争画には意外なほど内面を感じさせるものがなく、『アッツ島玉砕』は凄惨な光景を描きながらも意外とすっきりしていると評価している。また椹木は『アッツ島玉砕』はある意味超現実的な次元に達していて、「密室における大量猟奇殺人」を思わせる描写は、戦争の記録、戦闘の美化という戦争画本来の描写を通り越し、純粋な加害者意識の塊となって制作したように見えるとしている。その結果として軍部が目指す聖戦美術としての戦争画に期待された、歴史、美、正義の無意味さをその土台から暴き出していると評価する。 戦前期の藤田の戦争画に関する評価の中に、暗さや異常性への好みが見られるとの評価があり、前述のように田中日佐夫も藤田の残酷図好みを指摘しているが、菊畑茂久馬は『アッツ島玉砕』は藤田の最高傑作で名作中の名作と称賛し、地獄の怨霊まで寒からしめると評した上で、「殺戮の大画面に歓喜の声々をあげ」「画室は殺戮者が日ごと夜ごと訪ねて来て、彼(藤田)の職人的描写の筆に触れられて恍惚の悲鳴をあげていた」とした。針生一郎の『アッツ島玉砕』の評価は「凄愴苛烈な殺し合いの光景をこれでもかこれでもかと書き込みながら、作者の魂は全く関与していない」とした上で、「嗜虐的な興味に駆られてむごたらしい場面を描き」「その評価を偏執狂的に楽しんでいた」と、内面性の無さと嗜虐性について指摘している。米倉守は知人のアメリカ人の「藤田は負けたけど彼の絵画は勝った」との言葉を紹介した上で、藤田は「技術を駆使して単に記録画ではない人間の地獄絵図」を描こうとし、「狂うようにのめりこんでいった唯一の(戦争画の)絵描き」と評価している。 大塚英志は藤田の戦争画制作への転換は、純粋に技法的な書き換えレベルのものであり、非政治的な始末が悪い純粋さによるものであるがゆえに、逆に容易かつ躊躇なく政治的なものに染まってしまったと評した。そして「アッツ島玉砕」を始めとする玉砕図は、無邪気にあからさまな凄惨さを描く衝動に従って描いており、その結果として「度が過ぎた」戦争画として結実したがゆえに、戦時中は戦意高揚絵画として受け入れられたものが、戦後は逆に観衆に反戦のメッセージを受け取られたと分析している。 画家の会田誠は『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』を極端なパッションとモチーフの選び方が突出していると評価し、『アッツ島玉砕』は日本人や戦争や歴史や人類のどうしようもなさのようなものを描き、戦場の一場面を切り取った戦争画ではなく、もっと無限定な広いものを表現しようとした作品として捉えた。
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戦後の評価
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「ハンス・フォン・ドホナーニ」の記事における「戦後の評価」の解説
戦後になって、ドホナーニに即決裁判で死刑判決を下したオットー・トアベック(ドイツ語版)裁判長とヴァルター・フッペンコーテン検察官に対する殺人罪での裁判が西ドイツで行われた。連邦裁判所は控訴裁判所による2度の無罪判決を棄却したものの、1956年になって即決裁判は当時の法律によれば合法であり、法に基づく判決であったとして無罪判決を下した。これに対して道義上、あるいは法学上の批判が巻き起こった。 2002年、連邦裁判所長官ギュンター・ヒルシュ(ドイツ語版)はドホナーニ生誕100周年に際して「ドホナーニを法的な死に追いやった犯人たちは、ナチス・ドイツ時代に5万件の死刑判決を下した裁判官が誰一人として戦後報復を受けなかったという理由で無罪とされた。ドホナーニ裁判について、1995年に旧東ドイツの法的な不正を裁く裁判の中で、連邦裁判所はこの判決を明確に否定している」と述べた。 イスラエルは2003年10月26日、アルノルトおよびフリース一家を救ったドホナーニの功績を称えて「諸国民の中の正義の人」に列し、ヤド・ヴァシェム記念館の壁にドホナーニの名を刻んだ。
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戦後の評価
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「ドイツ国防軍女子補助員」の記事における「戦後の評価」の解説
1978年、ミュンヘン連邦軍大学で社会史・現代史の教授を務めていたフランツ・ザイトラーは、著書『Frauen zu den Waffen?』および『Blitzmädchen』の中で、女子補助員の実態を調査した。また、補助員らが戦闘の支援任務に従事する中で、どの時点で戦闘員としての自覚を持ったのかについても調査した。
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戦後の評価
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1948年以降、プルサックは、コレクションを年に2回発表するようになった。プルサックは、「sport-tricot」というタイプの運動着用のメリヤス生地をもっぱら扱った。このため彼女は、1942年以来加盟していたオートクチュール組合から、「クチュール・クレアシオン (Couture-Création)」の資格を剥奪された。それでもプルサックは、自らのコレクションを、パリのオートクチュールコレクションの時期に合わせて発表し続けた。
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戦後の評価
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戦後長らく彰元の存在は忘れ去られ、1977年に真宗大谷派が教学研究所編集の『近代大谷派年表』で彰元の名を出した際も、彰元は「大谷派」ではなく、「諸宗教」に分類されていた程であった。 愛知県一宮市の円光寺住職・大東仁が記した論文「仏教者の戦時下抵抗」により竹中の名誉回復運動が始まった。1990年(平成2年)4月に真宗大谷派名古屋別院で開催された『平和展』で彰元の反戦発言が展示され、以後2002年(平成14年)から真宗大谷派岐阜別院の『平和展』でも彰元の事績が展示され、名古屋別院、岐阜別院の影響を受けて2004年(平成16年)より京都の東本願寺本山でも『非戦・平和展』でも彰元の事績が展示されるようになった。また、岐阜市平和資料室は2002年(平成14年)の開館当初から彰元を展示している。 2007年(平成19年)10月19日に、真宗大谷派主催の「復権顕彰大会」が明泉寺にて開催され、熊谷宗恵宗務総長が謝罪、同宗派の処分を取り消す「宗派声明」が出され、処分から70年目に名誉回復を果たした。
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