戦後の試験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 09:25 UTC 版)
「JB-2 (ミサイル)」の記事における「戦後の試験」の解説
アメリカ陸軍航空隊では、プロジェクトMX-544として本機の研究開発を継続した。大きく分けて2種類のバージョンが試され、片方はあらかじめセットされた内部誘導装置を持ち、もう片方はレーダー制御であった。数種類の発射台が開発されたが、これは永久構築されたものや携帯式のものを含み、また移動式の発射装置にはB-17やB-29爆撃機の翼下部から発射するものがあった。発射と誘導の改良試験は、1944年から1947年までイーグリン基地で続行された。 アメリカ海軍で使用されたものはKGW-1である。後期型はLTV-N-2に再設計された。これは潜水艦の後部甲板上の、水密されたコンテナに搭載されるよう開発された。これを装備した最初の潜水艦はUSSカスクであり、1947年2月12日に最初のルーンの発射に成功した。位置はカリフォルニア州のムグ岬である。 1947年9月18日、アメリカ空軍は国防総省の完全に独立した組織となった。この後に研究は無人航空機と無人爆撃機の開発として続行された。研究内容には既存の利用可能なJB-2と1945年12月に開発内容が明示され、亜音速で500マイルの射程を持つこととされたXSSM-A-1が含まれた。XSSM-A-1の開発契約はメリーランド州バルティモアに所在するグレン・L・マーティン社に結ばれた。この計画はMX-771プロジェクトとして知られた。 1948年4月23日、ニューメキシコ州に所在するホローマン基地(前アラモゴード陸軍航空基地)において、空軍兵站軍団はEO-727-12計画としてJB-2を復活させた。ここでJB-2はミサイル誘導・制御技術と探知技術の開発や、測距と光学走査装備の試験、また空対地ミサイルや空対空ミサイルの標的として用いられた。皮肉にもV-1の開発名称はフラックツィールゲレート(対空標的装置)であり、これを成し遂げたことになる。JB-2計画では、ホローマン基地に設けられた北アメリカ航空NATIV(North American Test Instrument Vehicle)ブロックハウスと2本の発射台を使用した。これは全長400フィートの2条のレールを敷いた3度の角度を持つ土盛り斜面で、40フィートの牽引車用の斜面が設けられていた。この40フィートの牽引車用ランプは、結局この次に開発されたマーティンMGM-1マタドールに搭載されるシステムへの第一歩となった。これはアメリカが最初に作り出した、実戦投入可能な地対地ミサイル(巡航ミサイル)であった。ホローマンでの試験は1949年1月10日に無線誘導と制御システムの開発の成功の後に終了したが、この制御においては空中や地上の送信機から操縦されたJB-2を、ソリによって着陸させることさえもできた。 航空実験部隊はJB-2を一連の試験のために1940年代後半から1950年代にかけて使用した。1949年の春、イーグリン基地において第3200耐用試験グループは、B-36爆撃機の翼下からJB-2の発射を試験した。 約一年後、JB-2は試験的に機銃用の赤外線照準器の空中標的として実験された。 1992年の夏、サンタローザ島で軍の勤務員が、空軍が所有する基地の区画で保存状態の良好なJB-2の残骸を発見した。バリアー島のより荒廃が進んだ基地では、錆びた剥片が見つかるに過ぎなかったが、発見の後に当局はさらなる捜索を計画した。
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