戦後の跡地及び周辺の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:20 UTC 版)
「土浦海軍航空隊」の記事における「戦後の跡地及び周辺の状況」の解説
西側の第一海軍航空廠が所在した右籾地域は、一部が国鉄療養所(その後再開発されて摩利山団地となる)や引揚者住宅などに転用されるも、武器関係の整備施設や滑走路は霞ヶ浦駐屯地として残った。 霞ヶ浦に面する土浦海軍航空隊跡地(青宿地域)は1952年(昭和27年)に立川から保安隊武器学校が移転。旧司令部庁舎など中枢施設を活用しながら、武器学校は陸自の重要教育機関として機能し続けている。1980年(昭和55年)には武器学校の敷地内にある雄翔園に『若鷲の歌』の歌碑が建立された。隣接した地域には2010年に予科練平和記念館が開館し、予科練の歴史や展示物の紹介を行っている。土空の北側敷地は、多くが引揚者によって開拓され現在でも整然と区画された農地として残存する。 近傍の霞ヶ浦海軍航空隊跡の一部は協和発酵キリン(現在はMCフードスペシャリティーズ)や井関農機の工場になっている。また、中心部の同航空隊本部のあった地域には霞ヶ浦農科大学が開校し、その後茨城県立農科大学→茨城大学農学部と変遷を辿るものの、航空隊時代の建物がごく最近まで校舎として使用されていた。また旧医務室は農科大学に隣接する形で土浦協同病院の分院として開院したが、こちらも1949年に東京医科大学霞ヶ浦病院となり東京医科大学茨城医療センターとして現在に至っている。
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