戦後の議論展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:50 UTC 版)
米側では「卑怯なダマシ討ち」という言葉は分かりやすく簡潔な言葉であったため、スローガンとして士気高揚のため政治的に活用された。戦後、進駐してきた米側のこの主張があまりに圧倒的であった。 日本側関係者からは「帝国政府ノ対米通牒覚書」は開戦通告であり、これの手交が遅れたのは(初めから遅れることを狙ったかのような数々の"偶然"が重なったものの)事故であり、意図的なものではないとの主張がなされた。これは日本国内においては極めて成功し、日本においては、その後の議論は、さながら手交遅れが意図的でないことを前提に、遅れの責任がどこにあるか、なかんづく現地大使館にあるかどうかの議論が主になっていく。しかし、実際には「帝国政府ノ対米通牒覚書」は開戦通告(宣戦布告)ではなかった。開戦通告(宣戦布告)であるという文章は全く書かれていないのである。 東郷元外相は、東京裁判で「帝国政府ノ対米通牒覚書」の案文は外務省で作成したものであることを認め、また、自身の意見としてはこの通告を宣戦布告と同様に考えているとした。また、その際、海軍側が開戦まで交渉を継続し事実上無通告で攻撃開始することを希望していたことを暴露、これを否定する海軍側(永野、嶋田ら)といわゆるイカスミ論争と呼ばれる深刻な対立を引き起こした。これは開戦当時の情勢では、海軍の意を受けて外務省内のいわゆる革新派官僚(軍の国家総動員体制の確立に協力し、それにより省益や自己の栄達を図ろうとした少壮官僚らのこと)が通告遅れを策謀・演出した可能性も示唆しうるものであったが、その点が問題になることはなかった。 九州大学記録資料館の三輪宗弘教授は、「帝国政府ノ対米通牒覚書」の訂正電報を外務省が13~14時間遅らせて発信していた記録を、米国公文書館(メリーランド州)で発見し、東京の外務省本省が在米大使館の責任を押し付けようとしている可能性、陸軍の圧力による可能性等を指摘した。(ただし、陸軍の可能性については、AP記者が永野軍令部総長に取材し、彼より不明の理由により遅らされたと聞いて、その記者がこれを東条首相によるものではないかと推測したというもので、根拠と言えるほどの理由には全くなっていない。また、事実上、奇襲を希求する立場にあったのは寧ろ海軍であったことを無視している。) 前中央大学教授の歴史学者佐藤元英は、外務省内で実は宣戦布告無しの開戦を含む、ほぼあらゆる選択肢が検討されていたことをもとに、外務省本省が革新派外交官らを中心に宣戦布告を通知しない形での開戦という方式を意図していた可能性を提示した。(佐藤も陸軍の可能性について考えているが、その理由は、天皇がマッカーサーに自分は東条首相のトリックにかけられたと語っていた為これを通告遅れの事ではないかとするもので、この発言自体は曖昧ながら、トリックとは通告を遅らすべき理由の問題ではなく開戦そのもののことと考えるのが普通であるように思われる。) 「帝国政府ノ対米通牒覚書」の手交の遅れが意図的だったかどうかはともかくとして、米国政府に「帝国政府ノ対米通牒覚書」を手交したことには、天皇が開戦前にくれぐれも開戦通告をすることを指示していたからとする説(←東条が天皇を庇って東京裁判で主張した説だが、これでは英国に何らの通告もしなかった理由が説明できない)、英側植民地とは異なり米国を敗戦に追い込むことは不可能でいずれ和平交渉をすることが必要となるため、形としては外交手順を踏んだ形式を整えて置こうとしたからとする説、当時は野村駐米大使に加え来栖特命大使が派遣されて特別交渉を行っており、米政府もそのようなときにかかるまでの事態に対しては、これを初めからダマシ討ちのための交渉だったものと疑い、外交官特権を無視して両大使や大使館関係者を逮捕・取調を行う可能性もあり、その際に関係者が申し開きできるようにしておく必要があったからとする説(実際に米当局が大使館に踏み込むことを想定して、最終的には暗号書や最後に残った暗号機の破壊を指示している)等がある。 なお、「帝国政府ノ対米通牒覚書」と「敵対行為の開始に関するハーグ第三条約」との関連について、極東国際軍事裁判における本判決は次のように述べている―「この条約は、敵対行為を開始する前に、明確な事前の通告を与える義務を負わせていることは疑いもないが、この通告を与えてから敵対行為を開始する間に、どれだけの時間の余裕を置かなければならないかを明確にしていない」「一切の事が順調にいったならば、真珠湾の軍隊に警告するために、ワシントンに二十分の余裕を与えただろう。しかし、攻撃が奇襲になることを確実にしたいと切望する余り、彼等は思いがけない事故に備えて余裕を置くということを全然しなかった。こうして、日本大使館で通牒を解読し、清書する時間が予定より長くかかったために、実際には攻撃が行われてから四十五分も経ってから、日本の両大使は通牒を持ってワシントンの国務長官ハルの事務所に到達したのである」「奇襲という目的のために、時間の余裕をこのように少なくすれば、通告の伝達を遅らせる間違いや手違いや怠慢に対して余裕をおいて置くことができなくなる。そうして、この条約の義務的であるとしている事前の通告は、実際には与えられない事になるという可能性が大きい」。この判決は、事前通告無しに攻撃したとする検察側立証を無視し、真珠湾攻撃の責任者を処罰するというアメリカの期待を裏切るもので、一方的な勝者の裁きどころか、アメリカに対して冷淡なものであった。 判決に携わった判事らが、不戦条約が締結されたとはいえ世界的にしばしば戦争が行われており、それまでの国際法では国家の交戦権を認めており、その国際法はまだ生きており、国家行為として行われた戦争決定とその後の戦争行為そのものに個人の殺人責任を問う事は困難だと考えたものと思われる。
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