戦後の評価、解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 23:37 UTC 版)
「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」の記事における「戦後の評価、解釈」の解説
土屋文明は、藤の連作は状況を短歌の表現に落とし込もうとする努力の跡が十分に伺われ、いまだ子規の模倣の範疇に留まっているとはいえ、特に見劣りするような作品ではなく後の世まで残ったと評価している。岡井隆は、一息に太々と詠み下した歌であるとしており、永田和宏は、晴れた日に水面に映る藤は歌にするとかえって平板なものになりやすいが、左千夫はむしろ降りしきる雨の中の藤の姿に創作意欲を掻き立てられたと見ていて、「濁りににごり」にこの句の重点があると指摘し、写生派歌人の面目を示していると評価している。 近藤芳美は左千夫は子規を懸命に学ぼうとしたものの、結局、子規の「写生」を理解することはなく、むしろ子規の影響を超えたところに左千夫の本質があったと考えている。藤の連作の中で「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」は、作者左千夫の暗く重苦しい息づかいが感じられるという際立った特徴を持っており、子規には見られない主情的なものが潜んだ作品であると見なしている。そして伊藤左千夫は短歌の本質は「人間」であり「人生」にあるとの信念を持ち続けた歌人であり、本作には生きることを模索していく中での左千夫の心の声が潜んでいると評価している。 島内景二は、池水の濁りによって藤の花は映らないけれども、その濁りの向こうにある美しい藤の花を見ているとし、それは濁りや汚さを突き抜けたところにある美しい真実を描写するという、左千夫が求める写生を具現した短歌であると評価している。また子規の短歌に触発されて制作された本作において、藤の花は左千夫の師である子規の短歌、そして子規が主導する歌壇を象徴しているとともに、結核に苦しむ子規の姿も投影されているとの解釈もある。 一方、伊馬春部は平凡な歌であると評価し、中井英夫もまた、何ら深い意味などない、平凡な梅雨風景の写生であるとしている。
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