戦後の藤原義江とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦後の藤原義江の意味・解説 

戦後の藤原義江

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 14:24 UTC 版)

藤原義江」の記事における「戦後の藤原義江」の解説

義江と藤原歌劇団は、敗戦後半年経ない1946年昭和21年1月には帝国劇場で『椿姫舞台公演再開する同年秋にGHQによる公職追放によって東京音楽学校主任教授の座を失った木下保テノール)が歌劇団に参加しここまで10年超にわたり全ての演目主役テノール藤原義江務めるという状態からはようやく解放され主役二枚看板となったが、藤原出演しない途端にチケット行き落ちるという人気から、義江の過演状態は継続していた。声量声質衰えからもその公演過多ぶりは明らかだったという。 1948年昭和23年4月、「タンホイザー」ほか諸歌劇の上演により日本芸術院賞受賞1950年昭和25年)には東京赤坂オーケストラ付の立稽古可能な歌劇研究所」を建設三井高公の資金援助による)、やがて藤原自身同所居住することになる。研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団練習場置いていた。 1952年昭和27年)にNHK依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した藤原は、ニューヨーク・シティ・オペラ長らく日本活動していた旧知ジョゼフ・ローゼンストック訪ねる藤原は同歌劇場での『蝶々夫人』の上レベルのあまりの低さ立腹日本人役をすべて日本人歌手が歌う公演をしてはどうか、と提案する歌劇団の20名が参加したこの公演は、三宅春恵ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価得たが、藤原交渉能力低さから歌劇団には莫大な資金負担となってしまった(藤原高松宮宣仁親王口利き日本興業銀行から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらったという)。 1957年昭和32年)には治まることのない女性遍歴愛想つかした妻・あきと離婚藤原義江最後の舞台1964年昭和39年)の東宝ミュージカルノー・ストリングスであったその後脳血栓症、更にはパーキンソン病患い犬丸徹三厚意帝国ホテル内の専用室に居住しホテル内のレストラン食事をとる日々過ごしたという。1976年昭和51年3月22日77歳にて没した放恣人生歩んだように見え藤原であったが、その自伝などからは、実力もないまま「吾等のテナー」として祀り上げられてしまうことへの警戒心本場オペラ聴き知ってしまった者としてそれを日本定着させたいとする強い願望読み取れる(もっとも自伝脚色富んでおりそれ自体面白読み物である)。日本オペラ発展欠かすことのできない一人であった。 なお藤原歌劇団1981年昭和56年)、日本オペラ協会合併統合して財団法人日本オペラ振興会となり、「藤原歌劇団」の名称を西洋オペラの公演事業名として残している。

※この「戦後の藤原義江」の解説は、「藤原義江」の解説の一部です。
「戦後の藤原義江」を含む「藤原義江」の記事については、「藤原義江」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦後の藤原義江」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦後の藤原義江」の関連用語

戦後の藤原義江のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦後の藤原義江のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤原義江 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS