女性遍歴
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最初の妻・竹腰幸子(1870年 - 1936年11月5日) 東京生まれの3歳年上で、横浜で小学校教師をしていた。1895年に結婚後まもなく結核を患い、同じく胸に不調のある泡鳴と療養を兼ねて転居を繰り返すが、不仲となり1912年に離婚。子に、長女・喜代子(夭折)、次女・富美子、長男・諭鶴(夭折)、次男・薫、三男・真雄、四男・貞雄(夭折)。 芸者・吉弥 戯曲を書くため日光の温泉に滞在中、痴情に耽る(『耽溺』)。 愛人・増田しも江 泡鳴を樺太や北海道まで追う。心中し損なったあと、分かれる(『毒薬を飲む女』)。 二番目の妻・遠藤清子(1882年 - 1920年) 青鞜社同人の婦人解放運動家。元久留里藩士の父親が維新後漢学の私塾を開いたが失敗したため、府立第一高等女学校を中退、東京府教員伝習所を出て教師となり、電報通信社や大阪日報の記者となった。妻子持ちの同僚との恋愛に悩んで1909年に自殺未遂を起こし、その年の暮れに別居中の泡鳴と同棲。 1913年泡鳴と結婚し、翌年に長男・民雄(泡鳴の五男)を出産するも、泡鳴と蒲原房枝(英枝)との姦通事件により別居、離婚を巡って法廷闘争となり、1915年に『愛の争闘』を刊行、1917年離婚。その後、花屋を経営、10歳年下の画学生・遠藤達之助(1892年 - 1977年、のち小畠辰之助)と再婚して夫の実家の京都に転居し長女を出産、胆石により38歳で没。 三番目の妻・蒲原房枝(英枝) 青鞜社員で、泡鳴の口述筆記者。清子との離婚が成立する前の1916年に泡鳴との間に長女・美喜(泡鳴の三女)を出産、1918年には長男・諭鶴(泡鳴の六男)を生み、入籍。前夫との間に一子があったが、前夫が家を出たため離婚、教員をして自活していた。 最期の愛人・荒木郁子(郁)(1888年 - 1943年2月26日) 青鞜社員。泡鳴の弟子で、愛人とも。泡鳴の五男・民雄を清子の没後に引き取るが、民雄は関東大震災(1923年)で行方不明となる。
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