戦後の航空産業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 02:08 UTC 版)
かつて航空機大国だった日本は、1945年(昭和20年)に太平洋戦争に敗北すると、GHQ/SCAPによって航空機の研究・設計・製造を全面禁止された。戦前の航空機資料は全て没収され、機体は一部がアメリカ軍をはじめとする連合軍に接収されたほかは、すべて破壊された。GHQは、日本の重工業をすべて再起不能にした後、農業小国にしてアメリカに経済依存させ続けようという方針であったが、1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発し、三菱重工業(当時は「新三菱重工」)など旧航空機メーカーに、戦闘機など軍用航空機の点検・修理の依頼が入るようになっていた。 1952年(昭和27年)に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で日本が再独立すると、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止も解除されることになり、同年の7月に航空法が施行された。 民間航空会社はその前年の1951年(昭和26年)に日本航空がGHQの意向で発足しており、翌年の1952年(昭和27年)には全日本空輸の前身である日本ヘリコプター輸送、極東航空が発足し、その翌年の1953年(昭和28年)までには東亜国内航空(現・日本航空)の前身となる日東航空、富士航空、北日本航空、東亜航空が発足していた。 1955年(昭和30年)4月に川崎航空機(現・川崎重工業)と新三菱重工業(現・三菱重工業)に保安隊(後の自衛隊)向けの機体(ロッキードT-33Aジェット練習機、ノースアメリカンF-86F)の国内ライセンス生産が決定し、航空機産業復興の兆しが見え始めた。 戦後の日本の航空路線は、ダグラス DC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製やデ・ハビランド DH.114 ヘロンなどイギリス製の航空機が占めており、戦前の航空機開発・製造で実績のあった日本で自国製の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の望むところであった。
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