戦後の義兵の境遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/01 14:24 UTC 版)
戦争初期から、朝鮮人の一部は「義兵」と呼ばれる民兵を組織し侵攻に対抗した。これらの武装集団は朝鮮各地にて挙兵し、戦闘・ゲリラ戦・攻城戦や、戦時に必要になる輸送や建設作業に参加した。 民兵は主に、朝鮮正規軍の敗残兵、両班とその同調者で構成される義兵、僧兵であった。 しかし義兵と朝鮮政府・官軍との関係は、挙兵の時期や地域、率いる義兵将の階層や思想により様々であるが、戦役初期においては両者は対立していた。郭再祐率いる義兵も当初は反乱軍とみなされ、朝鮮官軍との間で戦闘が起こっている。 文禄の役の間、朝鮮半島の中では全羅道だけが侵攻を免れた地域として残されていた。李舜臣による海上での警備活動が成功したことに加えて、義勇兵の活動も日本軍を圧迫したため、日本軍は全羅道を避けて他の優先順位の高い目標へ向かった 。 しかし、義兵を束ねる諸将が総じて両班層(貴族階級)出身であるのに対して、配下にいた兵士の大部分が身分解放の要求をもつ農民や、奴婢あるいは李朝においては賤民身分に貶められていた僧侶などの被圧迫階級であったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると義兵たちは再び過酷な収奪を受ける農奴的身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。 対日戦の過程で官職を授けられた義兵将も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった。
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