戦後の繁栄: 1945年-1973年
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「アメリカ合衆国の経済史」の記事における「戦後の繁栄: 1945年-1973年」の解説
第二次世界大戦の終戦した1945年夏、ウォール街は取引を停止していた。しかし保険業界は1930年代から成長し続けていた。ブレトン・ウッズ協定が発効したので、基軸通貨としてのドルが不足しがちとなった。資金流出を止めるために金利は高止まりした。戦中に獲得した政府・企業の金塊を兌換から守る必要も出た。連邦準備制度が世界のあちらこちらで根回しに奔走した。 大統領経済諮問委員会が1946年の雇用促進法によって設立された。政策は軍需を創出する方向へ傾いてゆく。1947年、3月にトルーマン・ドクトリンが出て、6月にマーシャル・プランが提唱された。1948年、3月にハヴァナ憲章が成立したが、未発効におわる。同月のブリュッセル条約をきっかけに西ドイツの利権を回復してゆく。4月のボゴタ憲章により米州機構の礎を築き、中南米支配を再確立した。12月にはアメリカ対日協議会が発足し、太平洋利権の回復を加速させた。この1948年、保険業界が主に市場外取引で560億ドルを動かしていた。1949年、1月にフェア・ディール。8月、証券取引委員会が投信業界へ解約率の高さと販売方法の倫理的問題を指摘した。9月、ユーゴスラビアへ2000万ドル借款供与。11月、対共産圏輸出統制委員会設置。 マクファーデン法(McFadden Act)はモーゲージ貸付総額を定期性預金の半分までに制限していた。1945年から1948年に商業銀行の預金総額は74億ドル減少したが、定期性預金は逆に51億ドル増加した。1945年末に商業銀行が保有する収益資産の3/4を占めた米国債の価格を政策が支持したこともあって、商業銀行は非農地モーゲージ貸付に励んだ。 1950年代、朝鮮戦争に刺激された米国経済は順調となり、投信業界が事実上の自由化を遂げるほど隆盛した。好例はニューイングランド最大手DUPONT, HOMSEY & COMPANY である(のちに告発される)。Investors Diversified Services も台頭した(詳細)。ニューヨークのドレフュスファンド(のちにメロン財閥へ吸収されるドレフュス商会のミューチュアル・ファンド)はその資産を年に1.4倍近い割合で増やした。ファンド・オブ・ファンズの祖バーニー・コーンフェルドが国外営業に回ったのである。ボストンのシェアは1/3に縮んだ。株式市場ではインサイダー取引が復活した。証券取引委員会は株式市場の規制に手一杯となり、投信業界の規制は後手に回っていた。そこで戦間期に禁じられていた売り方が復活した。それは長期にわたる積立契約であり、初期の投資がポートフォリオに回らず色々な手数料に化けるという搾取であった。フィデリティ・インベストメンツでさえ目をつぶっていた。 1957年から1961年の間にアメリカは西欧諸国からおよそ1.75億ドルの特許料を得たのに対し、西欧諸国が米国から得た特許料は4100万ドルに留まった。これと関係して社会構造が変化した。農業機械の導入による合理化の進展により、農業人口が1940の17%から1960年にはわずか6%にまで減少、黒人が農業から締め出され都市へ移動し都市化が進展した。穀物メジャーがエレベーターを独占してアグリビジネスを展開した。こうしたことが1960年代の公民権運動へとつながっていく。 1957年にスプートニク・ショックが起こった。宇宙開発でアメリカがソビエト連邦に先を越された事件だった。これがその後の宇宙開発競争に繋がり、情報通信・制御技術が飛躍的に発展して、その後の経済効果を生んだ。一方、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1961年の大統領退任演説において指摘した、軍産複合体による政財間の癒着構造も生むこととなった。 1961年、1月にジョン・F・ケネディ大統領が就任したときにアメリカ史上最大の減税法案を成立させた。満期になった戦時公債2000億ドルおよびG.I.法案が教育の行き届いた労働人口を手当てした。7月6日にフィデリティが株主から集団訴訟を提起された。株主財産である「のれん」が運用手数料を稼ぐのに使われていることを問題にされていた。翌年に和解が成立し、手数料が減らされた。この事件は機関投資家全体の隆盛を全く妨げなかった。生保、投信、企業年金は、私募債市場を合理化するなどの革新をもたらした。1962年、2月にキューバが米州機構を脱退し緊張が高まった。5月に株式市場で世界恐慌以来のパニックが起きた。パニックをきっかけに、DUPONT, HOMSEY & COMPANY の不正や、バーニー製FOFの脱法が、少しずつ露となった。1963年、リンドン・ジョンソン大統領が貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大なる社会」政策を打ち出し、その一環としてメディケイドやメディケアといった医療援助制度をはじめとする多くの新しい社会改革を始めた。そして、このころからARPANET開発を政府が助成するようになった。 1966年、証券取引委員会がバーニー・コーンフェルドとその組織IOSを告発した。また、議会報告書の中で、州により禁じられている投信積立契約営業を批判した。しかし議会はベトナム戦争に夢中で法改正も何もしなかった。そこでエイブラム・ポメランツが投信会社を訴えまくった。1967年5月、バーニーが証券取引委員会から国内の投信会社を清算するよう命じられた。しかしカナダの非居住者企業として亡命を果し、アーサー・リッパー商会を通じてアメリカでの営業を続けた。同1967年Our Crowd という本が出版され、ユダヤ系のビジネスコネクションを暴露した。クーン・ローブ、リーマン・ブラザーズ、ゴールドマン・サックスだけでなく、Hallgarten & Company、Wertheim & Co.、J. & W. Seligman & Co.、Albert Loeb & Co.(1895年にシアーズの再建を支援)、Abraham & Straus、Macy's、Meyer Guggenheim's Sons、以上の経営者がすべて家族関係にあったのである。1968年、財政収支が赤字となり、さらに銀行引受手形市場がユーロクリアの支配するユーロダラーに奪われるようになった。それを支援するかのように、就任したばかりのリチャード・ニクソン大統領がウォール街など民間企業に対する政府の不干渉を約束した。1969年、3月の取引停止をきっかけにParvin-Dohrmann Corporation という銘柄の株価操縦が発覚した。この会社がフラミンゴ・ラスベガス買収を発表すると、株価は35ドルから110ドルに跳ねた。この事件は、世相を映すありとあらゆるもの、つまり証券会社、ファンドマネージャー、投機銘柄、買える尊敬、要塞化した複合企業、オフショア営業、未公開株式、そしてバーニー・コーンフェルド、全てが揃い関係していた。1971年、8月に来るべきニクソン・ショックがおこり、12月にスミソニアン協定が結ばれた。 ホワイトカラー層がブルーカラー層を数の上で凌駕し始めたこと、加えて生活水準が向上し、技術革新とコストダウンも相俟って結果として住宅・自動車・家電製品といった耐久消費財が普及し、大衆消費社会が本格化した。ここにアメリカ的生活様式という言葉まで生まれた。その姿は第二次世界大戦の前や戦時中に全盛となったハリウッド映画、さらには普及し始めたテレビに流れる映像によって世界中に知られるようになり、多くの国ではアメリカに少しでも追いつくことがその経済目標になった。一方で、1962年にマイケル・ハリントンがその著書『もう一つのアメリカ』で指摘したように「この国におよそ5000万人の貧民がいる」状況も注目され、リンドン・ジョンソン大統領(在任1963年-69年)のときに「貧窮との戦い」が宣言された。貧困率は1959年の22.4%から1973年は11.1%に減少した。1980年代から2020年の期間は、1959年以降最少となった2019年(約10.5%)を除き11%台から15%台の範囲内で推移している。2020年時点の貧困者数は約3,724.7万人(貧困率:約11.4%)である。1960年代末から1970年代初めにかけて、コーリン・クラークのいう産業のサービス化が進んだ。これにより収入の不均衡はかつてない位に劇的に増加した。しかしアメリカ合衆国の消費者は1970年代のインフレで多くの物を買えなくなった。1968年、合衆国のジニ係数(国民所得分配係数、0.5を超えると不平等格差が大きく問題となる)は0.388となった。この値は日本の0.381にほぼ等しく、イギリス (0.368) やカナダ (0.331)より高かった。
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