戦後の経過とは? わかりやすく解説

戦後の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)

山崎の戦い」の記事における「戦後の経過」の解説

翌日勝龍寺城入り体勢整えた秀吉堀秀政近江への交通路遮断光秀捜索派遣し、堀隊は14日光秀後詰のために急遽出兵した明智秀満の軍を打出の浜迎え撃ち撃破した300余の兵を討ち取られ敗走した秀満は坂本城相手方家宝贈呈した後、光秀妻子殺害し溝尾茂朝明智光忠と共に自刃した。中川高山両隊は丹波亀山城向かい光秀息子明智光慶自刃させ城を占拠。ここに明智氏僧籍にいた者などを除いて滅んだ。京に入った羽柴軍はさらに16日長浜城妻木範賢、佐和山城荒木行重、山本山城の阿閉貞征・貞大父子、山崎片家らの逃亡または降伏によって近江平定17日には斎藤利三潜伏先堅田生け捕りにされ、六条河原斬首あるいは磔刑処された。 秀吉は、この信長弔い合戦勝利した結果清洲会議経て信長の後継者としての地位固め天下人への道を歩み始める。清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明丹羽長秀攻められ自刃京極高次は妹または姉の竜子松の丸殿)を秀吉差し出して降伏した光秀敗因はまず兵力差が挙げられる。これには秀吉動き予想遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉信長軍の主力任されていたこと、周辺勢力助力得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川筒井両氏)、兵を近江方面割いていたことなど様々な要因絡んでおり、結果的に光秀十分な兵力揃えられないまま京と西国を結ぶ最後要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方に強行軍による将兵疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢決していたと言える現在の天王山山中には「秀吉旗立ての」が残っている他、合戦の経過解説する石板などが設置されている。

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戦後の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 23:46 UTC 版)

四万十川の戦い」の記事における「戦後の経過」の解説

この戦いで兼定逃げ延び瀬戸内での隠遁生活の末に10年後に43歳で死去した一方土佐を完全に掌握した長宗我部元親各地転戦して四国に覇を唱え天正13年1585年)頃には四国のほぼ全域勢力拡大する。しかし直後豊臣秀吉侵攻を受け、土佐一国大名として豊臣家降った

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