戦後の経過
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翌日に勝龍寺城に入り体勢を整えた秀吉は堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣し、堀隊は14日に光秀の後詰のために急遽出兵した明智秀満の軍を打出の浜で迎え撃ち撃破した。300余の兵を討ち取られ敗走した秀満は坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、溝尾茂朝、明智光忠と共に自刃した。中川・高山両隊は丹波亀山城に向かい、光秀の息子明智光慶を自刃させ城を占拠。ここに明智氏は僧籍にいた者などを除いて滅んだ。京に入った羽柴軍はさらに16日に長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征・貞大父子、山崎片家らの逃亡または降伏によって近江を平定。17日には斎藤利三が潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で斬首あるいは磔刑に処された。 秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹または姉の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏した。 光秀の敗因はまず兵力差が挙げられる。これには秀吉の動きが予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が信長軍の主力を任されていたこと、周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える。 現在の天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている他、合戦の経過を解説する石板などが設置されている。
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戦後の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 23:46 UTC 版)
この戦いで兼定は逃げ延び、瀬戸内での隠遁生活の末に10年後に43歳で死去した。一方、土佐を完全に掌握した長宗我部元親は各地を転戦して四国に覇を唱え、天正13年(1585年)頃には四国のほぼ全域に勢力を拡大する。しかし直後の豊臣秀吉の侵攻を受け、土佐一国の大名として豊臣家に降った。
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