包囲戦後の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:53 UTC 版)
「コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)」の記事における「包囲戦後の経過」の解説
この遠征の失敗はウマイヤ朝の弱体化へとつながった。歴史家のバーナード・ルイスが述べているように、「この失敗はウマイヤ朝政権に重大な節目をもたらした。装備と遠征の維持にかかる財政的な負担は、すでに危険な反発の芽となっていた逼迫した財政のさらなる悪化を招いた。コンスタンティノープルの海の城壁において被ったシリアの艦隊とその部隊への損害は、政権にとって最も重要な物質的基盤を奪うことになった。」。ウマイヤ朝の支配力への打撃は深刻なものであった。陸の部隊は海の艦隊に及ぶ程の損失は被っていなかったものの、征服したばかりのヒスパニアとトランスオクシアナからの軍の引き上げに加え、アラブ軍が過去数年の間に占領したキリキアと他のビザンツの領土からの完全な撤退についてウマル2世が真剣に検討したことが記録されている。ウマル2世の顧問たちはそのような極端な行動を思い止まらせたが、ほとんどのアラブの守備隊は包囲戦に至るまでに占領していたビザンツ帝国の辺境地帯から撤退した。キリキアではアンティオキアを守るための防衛拠点としてモプスエスティア(英語版)だけがアラブ側の支配地として残った。 ビザンツ帝国は一時的にアルメニア西部の領土の回復にも成功した。719年にはビザンツ艦隊がシリア沿岸を襲撃し、ラタキアの港を焼き払った。そして720年もしくは721年にエジプトのティンニース(英語版)を攻撃し、都市を略奪した。また、レオン3世は、アラブ軍によるコンスタンティノープル包囲の報を受け、都市の陥落を予想した現地の総督によりバシレイオス・オノマグロス(英語版)が皇帝として擁立されていたシチリア島の支配を回復した。しかし、一方ではこの時期にビザンツ帝国のサルデーニャ島とコルシカ島に対する実効支配が失われた。2年間の中断の後、720年にアラブ軍はビザンツ帝国に対する襲撃を再開したが、今やアラブ側の目標は征服には向けられておらず、収奪が目的となっていた。アラブ軍による攻撃は次の20年の間に再び激しさを増し、攻勢は740年のアクロイノンの戦いでビザンツ軍が大勝を収めるまで続いた。過剰に拡大したイスラーム帝国の他の戦線における軍事的な敗北と、アッバース革命で頂点に達した内部の混乱(第三次内乱(英語版))によって、アラブ拡大の時代は終焉を迎えることになった。
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