コンスタンティノープル包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 14:44 UTC 版)
「シャフルバラーズ」の記事における「コンスタンティノープル包囲」の解説
詳細は「コンスタンティノープル包囲戦 (626年)」を参照 シャフルバラーズは少数の軍団と共にヘラクレイオスの側面をすり抜けることに成功し、最短距離でボスポラス海峡を挟んでコンスタンティノープルの対岸にあるサーサーン朝の基地カルケドンへ進んだ。ホスロー2世はコンスタンティノープルに対するヨーロッパ側とアジア側からの共同攻撃をアヴァール人のハーンと調整した。シャフルバラーズの軍団はカルケドンに駐留し、アヴァール人はコンスタンティノープルのヨーロッパ側に展開してヴァレンス水道橋を破壊した。だが、ビザンツ海軍(英語版)がボスポラス海峡の制海権を握っていたため、サーサーン朝は軍勢をヨーロッパ側の同盟軍を支援するために送ることができなかった。攻城戦に精通したサーサーン朝の軍団が渡海できなかったことによって包囲の有効性が低下した。更に、サーサーン朝とアヴァール人はボスポラス海峡の防御を抜けて連絡を取ることが困難であった。ただし間違いなく両軍の間にはコミュニケーションが持たれていた。 8月7日、ボスポラス海峡を超えて軍団を輸送していたサーサーン朝のいかだの艦隊はビザンツ艦隊に包囲され破壊された。アヴァール人旗下のスラヴ人は金角湾を渡って海側の城壁への攻撃を試み、アヴァール人の主力は陸上の城壁を攻撃した。Patrician Bonusのガレー船は衝角攻撃によってスラブ人の小舟を破壊し、8月6日から7日にかけてのアヴァール人の陸上作戦もまた失敗した。テオドロスがシャーヒーンに対して決定的な勝利を収めたという報せとともに(恐らくシャーヒーンは失意のうちに死んだと思われる)、アヴァール人はバルカンの奥地へ撤退し、二度とコンスタンティノープルに脅威を及ぼすことはなくなった。シャフルバラーズの軍団はまだカルケドンに駐留していたにも関わらず、コンスタンティノープルへの脅威は過ぎ去った。 シャフルバラーズの失敗に失望したホスロー2世はサーサーン朝の全軍の副司令官だったKardarigan将軍に書簡を携えた伝令を送った。その書簡はKardariganにシャフルバラーズを殺害し、軍隊をクテシフォンに撤退させることを命じていた。しかしこれを運んでいた伝令はガラティアでビザンツ兵に捕縛され、この手紙はコンスタンティヌス3世の下に届けられた。そして彼はこの書簡をヘラクレイオスに渡した。この手紙を読んだ後、ヘラクレイオスはコンスタンティノープルでの会談の席でシャフルバラーズにこれを見せることを提案した。シャフルバラーズはこの提案を受諾しコンスタンティノープルでヘラクレイオスに面会した。そして書簡を呼んだ後、ヘラクレイオス側に鞍替えした。シャフルバラーズはその後、ホスロー2世が400人の将校を殺害しようとしていると書簡の内容を変更したが、間違いなくKardariganと残留中の軍隊はホスロー2世への忠誠を保った[訳語疑問点] 。 シャフルバラーズはホスロー2世とヘラクレイオスのどちらを支持するのかを状況に応じて即座に決断できるように自分の軍勢を北部シリアへ移動させた。ホスロー2世の最も熟練した将軍を中立化させたことで、ヘラクレイオスは敵国の最も経験豊富な部隊を離脱させ、イラン侵攻に先立ってその側面の安全を確保した。
※この「コンスタンティノープル包囲」の解説は、「シャフルバラーズ」の解説の一部です。
「コンスタンティノープル包囲」を含む「シャフルバラーズ」の記事については、「シャフルバラーズ」の概要を参照ください。
コンスタンティノープル包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:20 UTC 版)
「スラヴ人トマス」の記事における「コンスタンティノープル包囲」の解説
トマスの行動を予期していたミカエル2世は軍の指揮官としてコンスタンティノープルのヨーロッパ側後背地であるテマ・トラケス(英語版)とテマ・マケドニアス(英語版)に赴き、その地にあるいくつかの要塞の守備隊を強化して現地民の忠誠を繋ぎとめようとした。しかしトマスが上陸した時、ヨーロッパ側のテマの住民は彼を熱狂的に歓迎しミカエル2世はコンスタンティノープルへの撤退を余儀なくされた。多くのスラヴ人を含む義勇兵がトマスの軍旗の下へ集まった。年代記作家たちは、彼がコンスタンティノープルに近づくにつれ、その軍隊が80,000人あまりにまで膨れ上がったと述べている。コンスタンティノープルは近衛のタグマ軍によって守られており、これはテマ・オプシキオンとテマ・アルメニアコイからの増援によって強化されていた。ミカエル2世はコンスタンティノープルの城壁の修復と金角湾の封鎖を命じ、同時に艦隊に海上から首都の守備するよう命じた。こうしたミカエルの消極的な対応から判断して、これらの処置にもかかわらず彼の軍事力はトマスのそれに対して劣勢であった。ウォーレン・トレッドゴールドはミカエル2世の兵力がおよそ35,000人であったと見積もっている。 トマスの艦隊がコンスタンティノープルに最初に到着した。ミカエル2世の艦隊による抵抗を受けなかったトマスの艦隊は封鎖に使われていた鎖を破壊したか、はずすかして金角湾に侵入し、バルビュソス川(Barbysos)河口そばに係留してトマス軍の到着を待った。トマスは12月初頭に到着した。彼の大軍は首都の住民を怯ませることはなかった。地方のテマと異なり、首都の住民と守備兵はしっかりとミカエル2世の側に立っていた。更に軍の士気を高揚させるためにミカエル2世は自身の若き息子のテオフィロスに、真の十字架と処女マリアのマントを運ぶ行列を壁にそって行進させ、同時にブラケルナエ(英語版)の聖母マリア教会(英語版)に両方の陣営の全軍に見えるように巨大な軍旗を掲げた。 コンスタンティノープルの周囲の都市を制圧した後、トマスは3方からこの都市を攻撃することを決断した。この彼の攻撃は恐らく、コンスタンティノープルの住民に強い印象を与えるか、あるいはその逃亡を促すことを狙っていた。トマスの共同皇帝アナスタシオスとゲオルギオス・プテロトスはテオドシウスの城壁を陸海で攻撃し、トマス自身はブラケルナエのより弱体な守備に対して主攻撃を行おうとした。トマス軍の全軍に十分な攻城兵器と投石器を配備されており、艦隊は大型の艦載投石器に加えて大量のギリシアの火を使用した。しかし、トマス軍の各部隊の攻撃は失敗した。防衛軍の投石器はトマス軍の攻城兵器を陸上の城壁に寄せ付けず、その優秀さを証明した。そして艦隊は逆風に阻まれて意味のある行動を取れなかった。冬季における作戦行動が危険であり成功の見込みが薄いことからトマスは更なる攻撃を春まで延期し、軍を冬営地まで撤退させた。 ミカエル2世はこの小休止を利用して小アジアから増援を運び、ブラケルナエの城壁を修復した。トマスは春の再攻撃においてブラケルナエ地区に攻撃を集中することを決めていた。この攻勢が行われる前、ミカエル2世は自ら城壁に上り、トマスの軍隊へ向けて彼らの指揮官を見捨てるように呼び掛け、もし軍から離脱したならば恩赦を与えると約束した。トマス軍はこれを寧ろ弱さを示した嘆願と見て自信を深め攻撃を開始したが、トマス軍が城壁に近づくとミカエル2世の守備軍は城門を開いてトマス軍に襲い掛かった。この突然の襲撃によってトマス軍は蹴散らされ、同時にミカエル2世の艦隊はトマスの艦隊を撃破し、船員はパニックの中で打ち破られ海岸へと逃亡した。敗北によってトマスの海軍力は弱体化した。彼は陸上からコンスタンティノープルの封鎖を続けたが、この損失は兵士たちの士気を挫き、逃亡が始まった。家族がミカエル2世に囚われていたゲオルギオス・プテロトスはトマスを見限ることを決断し、彼に忠実な少数の兵士が従った。彼は反乱軍の軍営を抜け出して西へ向かい、ミカエル2世に自身の離脱を知らせるために修道士を使者として派遣したが、この修道士は封鎖をすり抜けることに失敗しコンスタンティノープルに到着しなかった。ゲオルギオス・プテロトスの離脱を知るとトマスは素早く反応し、追跡隊を選び出してゲオルギオス・プテロトスを追い、彼の軍を撃破して彼を殺害した。 トマスはこの価値の乏しい小さな勝利を利用し、ミカエル2世の軍を「陸海において」打ち破ったと広く触れ回った。彼はこのメッセージをこの時点まで去就をはっきりさせていなかったギリシアのテマに送り、追加の船の拠出を要求した。これは効果を発揮しこれらのテマは大きな反応を示した。彼らは艦隊を-伝えられるところでは350隻もの数を-トマスの軍に合流させた。これはトマスに元々持っていた艦隊で金角湾の城壁を攻撃し、新たな艦隊はマルマラ海に面した南岸を攻撃させるというコンスタンティノープルの海の城壁に対する二面攻撃を決意させた。だが、ミカエル2世は座視していることは無く、ミカエル2世の艦隊はこの新規の艦隊がビュリダ(Byrida)の停泊地に到着した直後にこれを攻撃した。ミカエル2世の艦隊はギリシアの火を使って多くの反乱軍の船舶を破壊し、残された船の大部分を鹵獲した。僅かな数の船が逃亡に成功し、トマスの軍に合流した。 この勝利によってミカエル2世は制海権を確保したが、トマスの軍は陸上での優勢を維持しており、コンスタンティノープルの封鎖を継続していた。同年の残された期間の間にミカエル2世は包囲中のトマスの軍へ向けて出撃し、小規模な戦いが起きた。この衝突で双方が小さな勝利を主張したが、いずれも決定的な勝利を得ることはできなかった ミカエル2世はビザンツ帝国の北方の隣人、ブルガリアに向かって救援を求めた。両国はレオン5世の下で結ばれた30年間の和平(英語版)に拘束されており、ブルガリアの支配者、オムルタグ・ハーン(在位:814年-831年)はミカエル2世の救援要請を喜んだ。ゲネシオスとテオファネス・コンティヌアトスが伝える後の伝承では、オムルタグがミカエル2世の意向に反して自身の意思に従って行動したとなっているが、これは「蛮族」の帝国領への侵入を望んだと見られるのを避けようとしたミカエル2世によって創作されたか、少なくとも流布されたものとして、ほぼ完全に否定されている。ブルガリア軍は恐らく822年11月に(ベリーはブルガリア人の攻撃を823年春と考えているが)トラケスに侵入し、コンスタンティノープルへと向かった。トマスは包囲を解き、ブルガリア軍に当たるために軍と共に進軍した。両軍はヘラクレア(英語版)近郊のKedouktosの平野で会敵した(このためにビザンツの史料ではKedouktosの戦いとして知られている)。戦いの結果についての諸史料の記録は食い違っている。後世の史料はトマスが戦いに敗れたと記すが、より同時代に近いゲオルギオス・モナコスはトマスが「数多くのブルガリア人を殺害した。」と述べる。戦闘後にブルガリア軍の活動が無いことから、現代の学者たちは(ベリーという特筆すべき例外を除き)トマスはこの戦いに勝利したと考えている。
※この「コンスタンティノープル包囲」の解説は、「スラヴ人トマス」の解説の一部です。
「コンスタンティノープル包囲」を含む「スラヴ人トマス」の記事については、「スラヴ人トマス」の概要を参照ください。
- コンスタンティノープル包囲のページへのリンク