コンスタンティノープルの陥落まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 09:19 UTC 版)
「ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)」の記事における「コンスタンティノープルの陥落まで」の解説
コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)に1400年頃生まれ、同地で教育を受ける。マルコス・エヴゲニコスに学ぶ。アリストテレス哲学の教養を備え、同時代人より西方教会の神学に明るかった。 哲学を講じた後、東ローマ帝国皇帝ヨアニス8世パレオロゴスのもとで裁判官を務めた。 フィレンツェ公会議では当初、東方教会と西方教会との合同に賛成していたが、師マルコスの説得により自己の過ちを認めて意見を変え、師マルコスの死後、時のコンスタンディヌーポリ総主教(ミトロファニス2世: 1440-1443、グリゴリオス3世: 1443-1450)が合同賛成派であった際に、合同反対派のリーダーとなった。グリゴリオス3世によって職を追われた後、修道士となり修道名ゲンナディオスを受ける(グリゴリオス3世はその後、1451年にローマに亡命した)。東西教会合同反対派リーダーとしてのゲンナディオスの立場は、その後も変わらなかった。
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