コンスタンティノープルの陥落以降
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「ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)」の記事における「コンスタンティノープルの陥落以降」の解説
1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世による侵攻により、コンスタンティノープルが陥落した。 メフメト2世はアギア・ソフィア大聖堂をはじめとする多くの正教会の聖堂を接収してイスラームのモスクに改修するなど正教への抑圧策をとる一方で、拡大する領土における正教徒(主にギリシャ人)を懐柔・統括するために、信頼の置ける総主教を必要としていた。 人選が行われ、ゲンナディオスが適任とされるに至った。ゲンナディオスはその時、コンスタンティノープル陥落時に奴隷の身分に落とされてエディルネ(アドリアヌーポリ)でトルコ人貴族のもとに居たが、メフメト2世の命令で解放された。 1454年1月、ゲンナディオスは総主教に着座。権杖、十字架、ローブはメフメト2世が与えた。座所は接収されたアギア・ソフィア大聖堂ではなく十二使徒聖堂(英語版)(Church of the Holy Apostles) に定められた。 その後総主教職から一旦退きアトス山に一時的に滞在した後、セレスにある前駆授洗イオアン修道院に入ったが、その後2回呼び戻されて復職(1462-1463、1464)。オスマン帝国時代のコンスタンディヌーポリ総主教には離職と復職を繰り返した者が珍しくなかったが、ゲンナディオスはその最初の例である。これはオスマン帝国治下では総主教が継続して在任出来る年数に制限が設けられたためである。ゲンナディオスは在任中、オスマン帝国のもとで正教徒に係る司法等を担いつつ、正教徒の権利保護のために尽力した。 永眠した年ははっきりしていない。
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