コンスタンティノープル付近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:36 UTC 版)
「サヴォイア十字軍」の記事における「コンスタンティノープル付近」の解説
1月後半ないし2月初頭にエモナの市民が反乱を起こした。恐らくコンスタンティノープルに帰還した後の3月15日に、ヨハネス5世はアメデーオ6世に対し、アメデーオ6世が征服したブルガリアの諸都市を受け取るのと引き換えに、その遠征費用を負担することを約束した。アメデーオ6世は、ブルガリアに虜囚の身になっている自軍兵士の釈放も目的とした出立のための最終準備を監督するため、ネセバルに向かった。4月9日までに全ての課題が成し遂げられると、十字軍はコンスタンティノープルへ帰還した。サヴォイア年代記はこの時の様子を以下のように記す。 皇帝は自身の従兄弟にあたる伯をより貴く名誉をもって迎えるために、司祭、官僚、全ての騎士修道会、紳士、市民、傭兵、女性、子供を集めさせ、これらの者はみな海岸へ伯を迎えに行って、「トルコからギリシャを奪回し、ブルガリアで囚われていた我らの主君たる皇帝を奪還してくれたサヴォイア伯のことをいつまでも忘れない」と叫んだ。コンスタンティノープルにてヨハネス5世はブルガリア遠征の費用として1万5千フローリンを支払うことに最終的に同意はしたものの、アメデーオ6世には結局約1万フローリンしか支払われなかった。 アメデーオ6世はオスマン帝国に対する戦闘をなおも企てていたものの、その意義はガリポリを占領したことで著しく低下していた。にもかかわらず、アメデーオ6世は5月14日にマルモア北岸のオスマン領であるエネアソシア城(現クチュクツェクメツェ(トルコ語版))に存在し、ギリシャの歴史家であるヨハネス6世カンタクゼノスが "レギウム付近の要塞" と伝える)を占領した。戦闘中にサヴォイアの一兵士が塔の頂点にサヴォイア軍旗を掲げる栄誉を受けた。同月にアメデーオ6世は、ソゾポリをオスマンの襲撃から守備するために北方に駆けていかねばならなかった 。 5月24日頃に十字軍はカロネイロと呼ばれるオスマンの要塞に火をつけたが、恐らくは東ローマ帝国がブユクツェクメツェ(トルコ語版)を破壊したことの意思表示だと思われる。4月から5月にかけての十字軍の主な関心は、帰りの航海のために船主に払う資金を集めることであった。
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