コンスタンティノープル大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/03 14:09 UTC 版)
コスタンティノープル大学(University of Constantinople、別名Pandidakterion (Πανδιδακτήριον)、 University of the palace hall of Magnaura (Πανδιδακτήριον της Μαγναύρας)、 は、テオドシウス2世が西暦425年にローマ・ビザンツ帝国に開設し、15世紀まで運営されていた教育機関・大学。[1][2] 同時代には、アンティオキア、アレクサンドリアでも類似教育機関が存在した[3]
学部
医学、哲学、法学、算数、幾何学、天文学、音楽学、修辞学、ラテン語、ギリシャ語
年表
- 西暦425年、Pandidakterion (Πανδιδακτήριον) 開設
- 9世紀、School of Magnaura 開設
- 1204年の第4次十字軍遠征時から衰退
- 1453年、コンスタンティノープルの陥落と共に廃止
- メフメト2世により改めて開設
教員
学生
脚注
- ^ Myriobiblos
- ^ The Formation of the Hellenic Christian Mind by Demetrios Constantelos ISBN 0-89241-588-6 [1] . The fifth century marked a definite turning point in Byzantine higher education. Theodosios ΙΙ founded in 425 a major university with 31 chairs for law, philosophy, medicine, arithmetic, geometry, astronomy, music, rhetoric and other subjects. Fifteen chairs were assigned to Latin and 16 to Greek. The university was reorganized by Michael ΙII (842–867) and flourished down to the fourteenth century
- ^ Europe: A Cultural History, by Peter Rietbergen 1998, p.101
- ^ Bulgaria.com
コンスタンティノープル大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 15:55 UTC 版)
「ビザンティン哲学」の記事における「コンスタンティノープル大学」の解説
東ローマ社会は当時の世界平均からすれば教育がよく行き届いており、他国よりも識字率が高かった。とりわけ、古典古代のアカデメイアに連なる安定した教育システムが存在した。初等教育は村のレベルに至るまで広く受けられた。東ローマに特有なこととして、帝国内では教育はある程度公共的なものであった。ムスリムによる征服までの数世紀間、アンティオキアやアレクサンドリアといった多くの州都で同一の制度が施行されていた。 コンスタンティノープル大学の元になる学校は425年にテオドシウス2世によって創立され、法、哲学、医学、算術、幾何学、天文学、音楽、修辞学、その他の分野を受け持つ三十一の講座が設置された。そのうち十五講座はラテン語で、十六講座はギリシア語で教授された。この大学は15世紀まで存続した。 大多数の学生が高等教育で習うのは主に修辞学、哲学、法であった。有能で教養ある人物を国や教会の官僚のポストに就けるのがねらいであった。この意味で大学は神学校の世俗世界における相似物であった。大学は長期にわたって耐えることのなかったプラトン学派とともに、プラトニズムやアリストテレス主義の伝統に基づいた生きた哲学の伝統を維持し、二つの千年紀にまたがって15世紀にその幕を閉じた。 マグナウラ学派が9世紀に起こり、11世紀には哲学と法の新しい学派が宮廷学校で生まれた。国家としては1204年の第4回十字軍とともに落日期を迎えるが大学はオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落まで教会の援助を受けて不安定ながらも存続した。
※この「コンスタンティノープル大学」の解説は、「ビザンティン哲学」の解説の一部です。
「コンスタンティノープル大学」を含む「ビザンティン哲学」の記事については、「ビザンティン哲学」の概要を参照ください。
- コンスタンティノープル大学のページへのリンク