ビザンティン帝国の黄金時代
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「中世前期」の記事における「ビザンティン帝国の黄金時代」の解説
マケドニアのビザンティン帝国(英語版) ビザンティン帝国の知的偉業は、ユスティニアヌス1世(528年-65年)のローマ法の大規模な編纂であるローマ法大全であった。この事業にはいかなる状況にも適用可能な方法でローマ法の原則を抜粋した要約集と呼ばれる節があった。文学の水準は、西ローマ帝国よりビザンティン帝国の方がかなり高かった。初等教育は広く行われ、時に農村部でさえ行われた。中等教育は依然としてイーリアスなどの古典が教えられた。 高等教育ではアテネの新プラトン学院が、異端として526年に閉鎖された。アレクサンドリアには依然アラブの占領(640年)まで開いていた学校もあった。元はテオドシウス2世(425年)により創立されたコンスタンティノープル大学は、この頃に解散したようである。849年にミカエル3世により再建された。アリストテレスの論理学が簡単な概要として網羅されていたが、この時代の高等教育は、修辞学に焦点を当てていた。マケドニア朝(867年-1025年)の下でビザンティン帝国は古典的な学問の黄金時代と復活を謳歌した。多くの語彙や詩選集、百科事典、解説を除いて、独自の研究は殆どなかった。
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