ビザンティンおよびオスマン時代とは? わかりやすく解説

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ビザンティンおよびオスマン時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/25 15:16 UTC 版)

ピリッポイ」の記事における「ビザンティンおよびオスマン時代」の解説

6世紀終わりスラヴ人侵略によりマケドニア農業経営崩壊し、またおそらくは547年疫病大流行en:Plague of Justinian)の影響もあって、ピリッポイはかなり弱体化していた。619年頃、地震によって都市は完全に破壊され、その打撃から二度と復興することはなかった。7世紀にもある程度都市活動行われていたが、その規模はもはや村落上のものを出なかった。 東ローマ帝国はおそらくピリッポイ守備隊駐屯させていたが、838年ピリッポイはイズブル・ハーン率いブルガール人によって占領された。バシリカB遺構基部碑文en:stylobate)には、この戦勝記念する碑文残っている。 戦略上重要な土地であるピリッポイを、東ローマ帝国比較早く850年頃には回復した9世紀前半同定される都市官吏や他の帝国官僚印章出土しピリッポイ帝国軍駐屯していたことを物語っている。 969年頃、皇帝ニケフォロス2世フォカスは、ピリッポイアクロポリス都市一部を再び城塞化した。これによって次第ブルガール人勢力衰え、この地方における東ローマ帝国プレゼンス強化された。1077年主教バシレイオスヴァシリオス)・カルトツィモプーロスは市の内部防壁部分的にではあるが再建した。市は再び繁栄向かい1150年頃にはアラブ人地理学者イドリーシー記録商業ワイン製造中心地として登場する1204年第4回十字軍によるコンスタンティノポリス占領の後ピリッポイ短期間フランク人によって占領されそののちセルビア人支配された。この時期においても、ピリッポイには古代エグナティア街道における著名な要塞残っていた。1354年東ローマ帝国帝位僭称者マタイオス・カンタクゼノスはこの地においてセルビア人に捕えられた。 ピリッポイいつ頃放棄されたかは、はっきりしない16世紀フランス人旅行者ピエール・ベロン訪れたときには、そこには廃墟以外は残っておらず、トルコ人石切り場使っていた。都市の名は最初ほど近い平野にあるトルコ人 Philibedjik に残っていたが、このは後に廃村となり、次に山中にあるギリシア人の名に用いられた。

※この「ビザンティンおよびオスマン時代」の解説は、「ピリッポイ」の解説の一部です。
「ビザンティンおよびオスマン時代」を含む「ピリッポイ」の記事については、「ピリッポイ」の概要を参照ください。

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