ビザンツ帝国復帰後のクレタ
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「ビザンツ帝国領クレタ」の記事における「ビザンツ帝国復帰後のクレタ」の解説
再征服の後、クレタ島は正規のテマとして編成され、ストラテゴスによってカンダクスを拠点に統治された。ヨハネ・クセノス(英語版)や聖ニコン(英語版)らによって島民のキリスト教への改宗に多大な努力が払われた。島の駐留軍として1,000名からなる連隊(taxiarchia)が形成され、taxiarchiaはトゥルマ(英語版)(tourmai)としてさらに細分化されていた。 アレクシオス1世(在位:1081年-1118年)の下、この島はドゥクス(公)またはカテパノ(英語版)によって統治された。12世紀初頭までには、クレタ島は南部ギリシア(テマ・ヘラス(英語版)およびテマ・ペロポネソス(英語版))と共に、ビザンツ帝国の海軍(英語版)司令官であるメガス・ドゥクス(英語版)(大公)の支配下にあった。総督カリュケス(英語版)による1092/1093年の反乱を除き、この島は比較的平穏が維持され、第4回十字軍までビザンツ帝国の手に残された。第4回十字軍の間に、アレクシオス4世はクレタ島をプロノイアとしてモンフェッラート侯ボニファッチョ1世のものとしたとみられる。だが、ボニファッチョ1世はクレタ島に実効支配をおよぼすことが出来ず、この島に対する自身の権利をヴェネツィア共和国に売却した。この取引の最中、クレタ島はヴェネツィアの商売敵であるジェノヴァ共和国によって制圧されたが、ヴェネツィアは1212年までにこの島に対する支配を確立し、ヴェネツィアの植民地としてのクレタ島(カンディア王国)が確立された。
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