キリスト教への改宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/03 16:21 UTC 版)
ブルグント人は、東部地域のどこかで、本来の多神教からキリスト教で異端とされたアリウス派へと改宗した。アリウス派への改宗は、キリスト教国である西ローマ帝国との間に生じた疑念と不信の源となった。この分断は500年頃には解消されることになるが、ブルグント人の王の1人であるグンドバト(Gundobad)は、ヴィエンヌ大司教アウィトゥス(Avitus)と個人的に親しい関係を維持した。グンドバトの息子で後継者のジギスムント(Sigismund)は、自身がキリスト教徒であり、この頃までにブルグント人の多くがキリスト教へ改宗していた。
※この「キリスト教への改宗」の解説は、「ブルグント人」の解説の一部です。
「キリスト教への改宗」を含む「ブルグント人」の記事については、「ブルグント人」の概要を参照ください。
キリスト教への改宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「キリスト教への改宗」の解説
アクスムの最大版図を確立したエザナだったが、320年頃にキリスト教へ改宗している。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認したミラノ勅令は313年であり、相当に早いキリスト教の受容だった。アクスムは、当時アラビア世界に進出したことでサーサーン朝ペルシアが敵対国となっており、それに対抗するためにキリスト教をビザンティン経由で受け入れていた。アクスム王国で布教されたキリスト教は、東方教会系の非カルケドン派に属していたが、エジプトのコプト正教会の影響を受けたために独自のエチオピア正教ともいうべきものだった。だが、6世紀に入るとユダヤ教が息を吹き返してキリスト教は迫害されるなど、王国の時期によって中心となった宗教は異なる。9世紀の女帝ヨディドの代になって、ようやくエチオピア正教はユダヤ教を追い落とすことに成功する。ただし、あくまでも隆盛著しいイスラム勢力への対抗処置であった。
※この「キリスト教への改宗」の解説は、「エチオピアの歴史」の解説の一部です。
「キリスト教への改宗」を含む「エチオピアの歴史」の記事については、「エチオピアの歴史」の概要を参照ください。
- キリスト教への改宗のページへのリンク