キリスト教カトリックの伝来と弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)
「李氏朝鮮」の記事における「キリスト教カトリックの伝来と弾圧」の解説
この頃に中国を経由してカトリックが流入してきており、そのカトリックの儀式が儒教の儀式と相反することから、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄(朝鮮語版))が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。1795年に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、蕩平政治(朝鮮語版)は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入もあいまって、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。 1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために蕩平(朝鮮語版)支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉教獄(朝鮮語版))。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年、1839年(己亥教獄(朝鮮語版))、1846年(丙午教獄(朝鮮語版))、1866年(丙寅教獄)など、断続的に行われた。
※この「キリスト教カトリックの伝来と弾圧」の解説は、「李氏朝鮮」の解説の一部です。
「キリスト教カトリックの伝来と弾圧」を含む「李氏朝鮮」の記事については、「李氏朝鮮」の概要を参照ください。
- キリスト教カトリックの伝来と弾圧のページへのリンク