キリスト教への傾斜と一燈園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:47 UTC 版)
「出家とその弟子」の記事における「キリスト教への傾斜と一燈園」の解説
退学後、百三は須磨・鞆での転地療養を経て、1914年(大正3年)3月に庄原に戻った。その途中に三次で、熱心な浄土真宗の信徒であった母方の叔母を訪ねて『歎異抄』を借りている。一方で、この頃からキリスト教にも興味を持ち、地元の教会に通うようになっていた。 同年9月、百三は結核性痔瘻を併発して広島病院に入院し、翌1915年(大正4年)1月、知り合いの牧師の紹介で、広島の伝染病院に婦長として赴任していた同い年でキリスト教徒の神田はると出会った。久子との失恋からキリスト教的な隣人愛を理想としていた百三は、献身的に看護するはるを宗教的に愛した。ともに賛美歌を歌い、祈り、食事をともにしたが、周囲は二人を卑しい目で見るようになり、ついにはるは百三のもとを訪れることができなくなった。百三は憤り、手術を重ねても思うような成果が得られなかったこともあって、泣いて付いて行くとすがるはるを残して、3月に広島病院を去った。退院後は別府温泉で療養したが、6月には庄原に戻っている。 庄原での百三は、教会に出かける以外は家を出ることもなく聖書や宗教書を読みふける生活を送った。教会で説教したこともあった。俗世を捨てて宗教的な生活を送りたいという思いを募らせる中、たまたま西田天香を知った百三は、その教えに共感し、一燈園での生活にあこがれて、京都の天香を訪ねるために11月に郷里を後にした。途中、糸崎・福山で数日はると過ごした後、12月2日に京都鹿ヶ谷の一燈園で天香と対面した。初対面で百三は天香に感服し、そのまま一燈園での生活に入った。この時、百三は友人にあてた手紙に「この後は一燈園に止まり、天香師を善知識として修行したいと考えます」と記している。 百三にとって一燈園での托鉢をはじめとした労働の日々は新鮮で充実したものではあったが、粗食と労働の生活は百三の病状を悪化させたため、心配した両親の希望もあって1916年(大正5年)1月には一燈園を出て、近くの下宿から通うことにした。3月には鹿ヶ谷に一軒家を借り、宮津の実家に戻っていたはるを看病に呼び寄せて「マルタとキリストのやうな心で」共棲を始めた。さらに4月には日本女子大学校を卒業した妹の艶子も同居した。百三の一燈園での生活は約半年で終わることになるが、この期間に百三は次第に仏教に関心を持ち、親鸞について学んでいった。
※この「キリスト教への傾斜と一燈園」の解説は、「出家とその弟子」の解説の一部です。
「キリスト教への傾斜と一燈園」を含む「出家とその弟子」の記事については、「出家とその弟子」の概要を参照ください。
- キリスト教への傾斜と一燈園のページへのリンク