労働の日々
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1982年、パキスタン北東部のパンジャーブ州ムリドゥケ村(英語版)の貧しい家庭に生まれた。父は薬物中毒のために、まともな職に就くことができなかったともいわれ、母が掃除の仕事でかろうじて家計を支えていた。4歳のとき、父親がイクバルの兄の婚礼のため、近所の絨毯工場から600ルピーの借金をした。当時のパキスタンでは、貧困に喘ぐ家庭の借金返済のために子供が強制的な労働を強いられる「債務労働」と呼ばれる児童労働が一般的であり、イクバルも例外なく、1986年、4歳にして絨毯工場での労働者となった。 契約上は1週間に6日、1日12時間の労働であった。大型の織機と狭い職場とで不自然な姿勢での労働を強いられ、絨毯に群がる虫を避けるために部屋は閉め切られて非常に暑く、絨毯の糸くずが空中に散乱して頻繁に咳き込むなど、環境は劣悪だった。共に働く子供たちの中には、常に絨毯の毛糸に触れるため、疥癬や皮膚の潰瘍に苦しむ子供が多く、悪い姿勢での労働の末に関節炎や手根管症候群を患う子供もいた。イクバルもまた、織機のそばで不自然な姿勢での労働を何年も続けたことで、少年期の成長を阻害されることとなった。長い休みを得ることもできなかったため、病気になっても休みは許されず、休みを乞うたために逆に仕置きを受け、さらに病気を悪化させる子供もいた。 休憩は1日30分、食事もわずかの米と豆、まれに少量の野菜が加えられる程度で、これも少年期のイクバルの成長を阻害する一因となった。このわずかの食費や、さらに仕事を覚えるための研修費用や仕事道具の費用までもが借金に上乗せされていた。仕事上に道具で傷を負ったときには、痛みも構わず、マッチの粉をつめて火をつけられて傷口を塞がれたり、熱い油で止血されたりした。これは傷の手当よりむしろ、絨毯が血で汚れることを防ぐためだった。仕事を終えて夜に帰宅する頃には、疲労のあまり遊ぶ気力も消え失せていた。 工場に絨毯の注文が大量に舞い込んだ際は、契約外の労働で徹夜となる日もあった。理不尽な労働にイクバルが抗えば、殴りつけられたり、天井から逆さ吊りにされるなどの体罰を与えられた。雇い主の目を盗んで脱走して警察に駆け込むこともあったが、逆に警察によって工場へ連れ戻される始末で、脱走の罰金を科せられた。挙句には脱走しないよう、織機に鎖で繋がれるようになった。仕事上でのミスもまた、体罰や罰金の対象となった。 さらにイクバルの家が追加で借金をしていたため、相次ぐ罰金と借金により、当初600ルピーだった借金は、最終的に13000ルピーにまで膨れ上がっていた。このままでは、イクバルは一生終わりの見えない奴隷同前の生活を送るしかないものと思われていた。 ぼくの両親はどうすることもできなかった。ぼくの家族のように貧しい人たちは無力なんだ。だから、ぼくは、家族には何も求めなかった。 — イクバル・マシー、クークリン 2012, p. 102より引用。
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