労働のコモディティ化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:57 UTC 版)
「コモディティ」の記事における「労働のコモディティ化」の解説
詳細は、「労働は商品ではない(英語版)原則」を参照。 古典的な政治経済において、特にカール・マルクスの『経済学批判』では、商品とは人間の労働により生産される物体、品物、またはサービス(「製造」または「活動」)である。対象物は人間の外側にある。しかしながら、いくつかの対象物は、この世界の人達が「生活において必要、有用または喜ばしい」と分かった時に「使用価値」を獲得する。「使用価値」は対象物を「人間が望む対象」にさせたり、それが「最も広い意味での生活手段」となる。 社会が発展するにつれて、人々は品物やサービスを他の品物やサービスと交換できることを発見した。この段階で、これらの品物とサービスが「コモディティ」になった。コモディティは、販売のために提供されるか、または「市場で交換される」対象物として定義される 。コモディティが売却される市場において、「使用価値」はコモディティ販売を促進する手助けにならない。そのため、使用価値を有することに加え、コモディティは「交換価値」を、市場内で表現されうる価値を有する必要がある。 マルクス以前、多くの経済学者が交換価値を構成する要素について議論した。アダム・スミスは、賃貸、利潤、労務、農耕具の消耗費用から交換価値が構成されると主張した。アダム・スミスの門弟であるデイビッド・リカードは、労務だけが品物やサービスの交換価値の内容であると主張することにより、この点においてスミスのアプローチを修正した。商品における全ての交換価値が、商品を作った人々の手から直接得られたものであることを維持する一方で、リカードは商品の交換価値の一部だけが商品を作った勤労者に支払われたと述べた。 この商品価値のもう一つの部分とは、作業者に支払われなかった労働、無給労働だった。この無給労働は、生産手段(製造道具等)の所有者によって保持されていた。資本主義社会においては資本家が生産手段を所有しており、それゆえ無給労働が資本家によって賃料や利益という形で保持される。生産手段とは、商品が作られる場所、生産に使用される原材料、商品の生産に使用される器具や機械を意味する。 しかしながら、全てのコモディティが再生産可能なものとは限らず、また全てのコモディティが当初より市場で売却されることを意図されたものでもなかった。例えば人間の労働力、芸術作品や自然資源(「地球自体が労働の道具である」)など、市場向けに特別に作られたものではなく再現性のない品物でさえも、これら値段がつけられたものはコモディティという形で扱われた。 商品に関するマルクスの分析は、労働価値説を用いて、品物の経済的価値を確立するものは何かという問題解決の手助けが意図されている。この問題はアダム・スミスやデイビッド・リカードやヨハン・ロードベルトゥスらによって広く議論された。これら3人の経済学者は全員、商品の交換価値の100%を労働が構成しているという理論を否定した。程度は様々だが、これらの経済学者は商品価格を確立するための供給と需要に目を向けていたのだ。マルクスは、商品の「価格」と「価値」は同義ではないと主張した。任意の商品の価格は、ある期間における需要に対する供給の不均衡に応じて変動する。同じ商品の「価値」は首尾一貫しており、その商品を生産するために使われた労働価値の量を反映するとされる。 マルクス以前、経済学者は、商品の価値を確立するために「労働の量」を用いることの問題とは、未熟作業者が費やした時間が熟練作業者が同じ商品に費やした時間よりも長くなることだ、と気付いていた。そのため、この分析の下では、未熟作業者によって生産された商品が、熟練作業者によって生産された同じ商品よりも価値が高い。マルクスはしかし、広い社会において商品ができるのに必要な平均時間の量について指摘した。商品を生産するために必要なこの平均時間を、マルクスは「社会的に必要な労働時間」と呼んだ。社会的に必要な労働時間は、与えられたコモディティの「交換価値」の基となる、適切な基礎であった。 経済学において価値と価格は同等の用語ではなく、市場価格に対する価値の特別な関係を理論化することは、自由主義とマルクス主義の経済学者双方にとって挑戦であった。しかし、マルクスは商品の価値と価格は需要と供給が同等である場合にのみ一致すると主張した。
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