ビザンツ帝国の衰退と第4回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
「ギリシャの歴史」の記事における「ビザンツ帝国の衰退と第4回十字軍」の解説
ブルガリア王国はすでにビザンツ帝国により占領されていたが、1086年、ブルガリアにおいて大規模な反乱が勃発した。ビザンツ帝国はこれを鎮圧しようとしたが、結局、その独立を認めざるを得なくなり、さらに時の皇帝、アレクシオス3世の従兄弟、マヌエル・カミュツェスはギリシャ北部で独立政権を立ててテッサリアを占領したために、アッティカ地方が失われ、さらにペロポネソス半島でも独立政権が樹立され、ビザンツ帝国内は混乱の極みに至った。さらに悪名高い第4回十字軍がコンスタンティノープルへ襲来、ペロポネソスの独立政権の担い手、レオーン・スグーロスはテーバイを占領してテッサリアまで勢力を伸ばした。1204年4月13日、コンスタンティノープルは陥落、ビザンツ帝国の落日が開始された。 十字軍とその後ろ盾であったヴェネツィアはビザンツ帝国を分割し、ラテン帝国、ヴェネツィア領、十字軍に参加した諸侯の領地となった。ギリシャ各地にテッサロニキ王国、アテネ公国、アカイア公国といった十字軍国家が建設され、スグーロスも撃破された。ラテン帝国、テッサロニキ王国は北方で復活したブルガリア帝国の脅威が常に存在したが、ギリシャ南部のアテネ、アカイア両公国はブルガリアに脅かされることも無く支配体制を確実なものとしていた。さらに旧ビザンツ帝国領土にはビザンツの貴族による亡命政権も誕生し、ニカイア帝国、エピロス専制侯国が樹立された。後にエペイロス専制公国はブルガリアに敗北したため、一地方勢力にすぎなかったが、ニカイア帝国はバルカン半島へ手を伸ばし強国と化した。ニカイア帝国はラテン帝国を包囲、さらに1261年にコンスタンティノープルの奪還に成功、ラテン帝国は滅亡、ここにビザンツ帝国が復活を遂げた。 ギリシャにおいてはペロポネソス半島の半分が復活したビザンツ帝国領となり、アカイア公国、アテネ公国、ヴェネツィア領の島嶼などは健在であった。その後、ビザンツ帝国はテッサリアを占領、エペイロスも併合してギリシャ北中部を自国とし、1340年の時点で現在のギリシャに等しい領土を占有していた。しかし、ビザンツ帝国内では内紛が生じ、セルビア帝国の成立もその脅威を拡大するなど、混迷を深めた。
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