ビザンティン時代初期
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しかしながら、3世紀中ごろの北方からの蛮族の侵入によってその栄華は終わりを告げ、270年にはゴート族によって一時的に町は征服された。ディオクレティアヌスは294年10月28日から10月30日までアンヒアロスに滞在した。ディオクレティアヌスおよび大帝コンスタンティヌス1世の修復によって町は再び繁栄を取り戻し、帝国の新しい首都となったコンスタンティノポリスへの地理的な近さによって、アンヒアロスは食料供給拠点となった。 東ゴート王国のテオドリック大王が476年にアドリアノープルへの途上でアンヒアロスを訪れた。ビザンティンの高位の将軍ウィタリアヌス(Vitalian)は513年にこの地域で反乱を起こし、515年に将軍が敗北するまでの間、一時的にアンヒアロスや周辺の町を支配下に置いた。これは将軍によるコンスタンティノープル攻撃のためにこの地域の船を利用するためであった。5世紀から6世紀にかけてアンヒアロスは自治大主教区(autocephalous archbishopric)となった。 スラヴ人とアヴァール人が侵入し584年にアンヒアロスは征服され、その城壁は破壊された。アヴァールのカーガーンであるバヤン(Баян、Bayan)は町に数ヶ月にわたって居住し、ビザンティンとの間に講和条約を結んだ。ビザンティンの皇帝マウリキウスによる北方への征伐の直前に、皇帝は町の復興を見るためにアンヒアロスを訪れた。
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