世俗世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:58 UTC 版)
「マルセイユの大ペスト」の記事における「世俗世界」の解説
マルセイユへの帰路、乗組員に数人の死者が出たため1716年の規則に従い、グラン・サン・タントワーヌ号はジャール島において検疫を行うべきであり、衛生局に直接荷卸しをすべきではなかった。なぜ規則が守られなかったのだろうか?この規則違反に、どのような責任者が関係していたのだろうか? 当時、その規則違反に第一に関与した者としては船長のジャン=バティスト・シャトーがあげられる。船長として乗船者にペストが発生したことを知っていたことはほとんど確実であったが、彼は衛生局において規則に従い航海中の死者を隠蔽することなく報告した。しかしながら1720年9月8日にディフ城に投獄され、彼が無罪であることが認められてからずっと後の1723年9月1日まで釈放されなかった。 第二に関与した者としては、貴重な貨物の一部を所有しているマルセイユ市筆頭参事会員のジャン=バティスト・エステルである。貨物の価値は全部で30-40万ポンドと推定されており、そのうち約2/3が膨大な数の小口所有者、残る1/3はエステルを含む4人が均等に所有権を持っていた。したがってエステルは2万5千ポンドの価値を持つ商品の所有者であり、それはかなりの額面であったが、重職にある商人にとってはそれほどの金額ではなかった。エステルが真っ先に疑われたのは、衛生局員に対して自身の保有する貨物や、他の商人の貨物を優遇するよう影響力を行使したためである。プロヴァンス地方行政長官ルブレの支援により、エステルは1722年に国王から無実と認められ、貴族に列せられると同時に年6000リーブルの年金を獲得した。エステルがその恩恵を受けた時間は長くなかった。受給が決まった直後の1723年1月16日、61歳で死亡したからである。このようにペストの流行の原因について責任ある可能性がある人物はいるものの、市参事会員たちやその協力者たちの偉大な献身は記憶されるべきである。 衛生局員の責任も重大であった。事実上、裁判官でもあり陪審でもあった。商人や市参事会から独立していないため、自らを曲げてグラン・サン・タントワーヌ号からの貨物に対してのみより緩やかな検疫を適応できるようにしたのである。それに加えて、60年もの間疫病が入っていなかったことがもたらした全体的な弛緩もあった。衛生局の規律が欠けていたために、特に乗組員が持ち込んだ雑多な私物に紛れて、汚染された織物が違法に持ち込まれる結果となった。 市民の中でも特に傑出した人物としては、リーブ・ヌーヴ地区の長に指名され、資源を組織化し持てる財産を投じて小麦を調達したニコラ・ローズが挙げられる。トゥレット地区の清掃はその中でも最も高名なエピソードである。 最後に市民の中に、医学がごく限られた知見しか持ちえなかった時代に、自らを犠牲にした医師たちの存在が特筆される。ペイソンネル医師の名はもちろんだが、30人の外科医のうちに25人が死亡したことや、100人の青少年が看護師として活躍し、その大半が死亡したことも忘れてはならない。
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