船長として
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「エドワード・イングランド」の記事における「船長として」の解説
1718年、イングランドはヴェインから船を与えられて独立した。バハマ植民地総督のウッズ・ロジャーズがナッソーへやって来たさい、多くの海賊が王の赦免を求めて降伏したが、ヴェインと配下の海賊たちはこれを拒否した。イングランドも例外ではなく、一味はアフリカへ向かった。 一味はシエラレオネでブリストル籍のスノー船カドガン号を拿捕する。この船の船長はスキナーという男で、イングランドの部下のうち数人はかつて彼の船の乗組員だったことがあった。スキナーは彼らといさかいを起こし、給与を払わずに追い出してしまった過去があり、恨みを持っていた海賊たちはスキナーに虐待を加えた。チャールズ・ジョンソンの『海賊史』によると、海賊たちはこう言ったとされる。 「これはこれは、スキナー船長じゃねえですかい。俺はあんたに会いたかったぜ。あんたには随分と借りがあるから、たっぷり礼をさせてもらいますぜ」 そう言うやいなや、海賊たちはスキナーをウィンチに縛り付けてから酒瓶で殴りつけた。さらに彼らはスキナーの命乞いを無視して甲板中を引き回し、散々鞭打った。最後には「いい船長だった」と言い放ってフリントロックで頭を撃ち抜いてしまったという。 イングランドはカドガン号の乗組員たちを自分の部下とするつもりであったが、この船に一等航海士として乗船していたハウエル・デイヴィスはこれを拒否した。デイヴィスは海賊の仲間になるぐらいなら死んだ方がマシだと言い放ち、この勇気に感心したイングランドはカドガン号の指揮権をデイヴィスに与えて解放した。この一件がデイヴィスの海賊としてのキャリアのスタートとなり、後にデイヴィスの部下となるバーソロミュー・ロバーツにも繋がることとなる。 その後、イングランドはパール号を拿捕すると自らの旗艦とし、ロイヤル・ジェームズ号と改名した。1719年の春、ガンビア川やケープ・コーストの沿岸を荒らしまわり、10隻もの船を掠奪、拿捕した。これらのうち2隻をイングランドのもとから離れるロバート・レーン、およびロバート・サンプルに与えた。更にヴィクトリー号を僚船とし、ジョン・テイラーという荒くれの男に指揮を任せた。 アフリカ沿岸を掠奪しながら航海したイングランドの一味はウィダーに向かうが、当地は既にラ・ブーシュ船長というフランス人海賊に掠奪された後であり、これは徒労に終わった。一味は近くの港に入港してそこで数週間過ごすが、現地の女たちに乱暴を働き、住民と争いを起こして数人を殺害するにまで至った。さらに集落を焼き払ってしまったという。
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船長として
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1880年3月、ホワイト・スター・ライン社に移り、セルティックの四等航海士となった。その後、会社のオーストラリア航路やニューヨーク航路に勤務し、瞬く間に昇進を重ねていった。1887年、蒸気船リパブリックの船長となり、翌1888年には特別船長資格を取得、また英国海軍予備役大尉となった。これは、戦争の際にはスミスとスミスの船が英国海軍のものとして活動することを求められうることを意味していた。英国海軍艦隊の船長であったため、他の商船がレッド・エンサインの権利を与えられていたところ、スミスにはブルー・エンサインを掲げる権利が与えられていた。
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船長として
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「バーソロミュー・シャープ」の記事における「船長として」の解説
コクソンらが去った後、一味は人望の厚かったソーキンスを指揮官に任命した。そして新たな獲物を求めてパナマ湾を出港したが、5月22日、ソーキンスがプエブラ・ヌエバの町を攻撃している最中に殺されてしまった。後を継いだシャープは南アメリカを回航することを決め、サン・フランシスコ岬を南に向かってアメリカを目指した。途中グアヤキル沖で船を拿捕し、ラ・セレーナの町を掠奪して火を放った。クリスマス頃、ファン・フェルナンデス諸島においてシャープは解任され、かわりにジョン・ウォトリングが船長となった。一味はアメリカ海岸のスペイン人が銀の集積地に使っていた町を攻撃したが、ウォトリングを含む多数の死者を出し、これは失敗に終わった。再びシャープが指揮を執ることになり、一味は撤退し、3か月もの間海岸近くを行ったり来たりしながら集落から物資を奪った。1681年4月17日、トリニティ号内でシャープに対して不信任の投票が行われ、船長の座は維持したものの約50人が船を去ることになった。これにはダンピアやウェーファーが含まれていた。 7月8日、商船サン・ペドロ号を拿捕し、大量の物資のほかに37,000枚もの8レアル銀貨を掠奪した。さらに3週間後、エル・サント・ロサリオ号を戦闘の末に拿捕し、大量の積荷と貨幣、銀の延べ棒を掠奪した。この船には太平洋の海岸線に沿ってある全ての港や停泊地に関する海図が積まれており、これは海賊行為に大いに役立ったとされる。一味はマゼラン海峡を目指したが、10月ごろに強風にぶつかって意図せず大きく南下し、ホーン岬を回航することになってしまった。同年のクリマスマスごろまでにはリオ・デ・ジャネイロの緯度まで北上した。 1682年1月30日、一味はアンティグアに到着したが、島のコドリントン総督は一味の入港を拒否してしまった。そこで一味は7人の仲間にトリニティ号を与え、あとの者たちは2隻の船で直接イギリスに帰郷することにした。彼らがダートマスに到着したのは3月26日のことであった。
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