船長としてとは? わかりやすく解説

船長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 07:13 UTC 版)

エドワード・イングランド」の記事における「船長として」の解説

1718年イングランドヴェインから船を与えられ独立したバハマ植民地総督ウッズ・ロジャーズナッソーへやって来たさい、多く海賊が王の赦免求めて降伏したが、ヴェイン配下海賊たちはこれを拒否したイングランド例外ではなく一味アフリカへ向かった一味シエラレオネブリストル籍のスノーカドガン号を拿捕する。この船の船長スキナーという男で、イングランド部下のうち数人はかつて彼の船の乗組員だったことがあった。スキナーは彼らといさかい起こし給与払わず追い出してしまった過去があり、恨み持っていた海賊たちスキナー虐待加えたチャールズ・ジョンソンの『海賊史』によると、海賊たちはこう言ったとされる。 「これはこれはスキナー船長じゃねえですかい。俺はあんたに会いたかったぜ。あんたには随分と借りがあるから、たっぷり礼をさせてもらいますぜ」 そう言うやいなや海賊たちスキナーウィンチ縛り付けてから酒瓶殴りつけた。さらに彼らはスキナー命乞い無視して甲板中を引き回し散々鞭打った。最後には「いい船長だった」と言い放ってフリントロックで頭を撃ち抜いてしまったという。 イングランドカドガン号の乗組員たちを自分部下とするつもりであったが、この船に一等航海士として乗船していたハウエル・デイヴィスはこれを拒否したデイヴィス海賊仲間になるぐらいなら死んだ方がマシと言い放ち、この勇気感心したイングランドカドガン号の指揮権デイヴィス与えて解放した。この一件デイヴィス海賊としてキャリアのスタートとなり、後にデイヴィス部下となるバーソロミュー・ロバーツにも繋がることとなる。 その後イングランドパール号拿捕すると自らの旗艦とし、ロイヤル・ジェームズ号と改名した1719年の春、ガンビア川ケープ・コースト沿岸荒らしまわり、10隻もの船を掠奪拿捕した。これらのうち2隻をイングランドのもとから離れるロバート・レーン、およびロバート・サンプル与えた。更にヴィクトリー号僚船とし、ジョン・テイラーという荒くれの男に指揮任せたアフリカ沿岸掠奪しながら航海したイングランド一味ウィダーに向かうが、当地は既にラ・ブーシュ船長というフランス人海賊掠奪された後であり、これは徒労終わった一味近くの港に入港してそこで数週間過ごすが、現地女たちに乱暴を働き住民争い起こして数人殺害するにまで至った。さらに集落焼き払ってしまったという。

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船長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 02:55 UTC 版)

エドワード・スミス」の記事における「船長として」の解説

1880年3月ホワイト・スター・ライン社に移りセルティック四等航海士となったその後会社オーストラリア航路ニューヨーク航路勤務し瞬く間昇進重ねていった。1887年蒸気船リパブリック船長となり、翌1888年には特別船長資格取得、また英国海軍予備役大尉となった。これは、戦争の際にはスミススミスの船が英国海軍のものとして活動することを求められうることを意味していた。英国海軍艦隊船長であったため、他の商船レッド・エンサイン権利与えられていたところ、スミスにはブルー・エンサイン掲げ権利与えられていた。

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船長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:43 UTC 版)

バーソロミュー・シャープ」の記事における「船長として」の解説

コクソンらが去った後、一味人望厚かったソーキンスを指揮官任命した。そして新たな獲物求めてパナマ湾出港したが、5月22日、ソーキンスがプエブラ・ヌエバの町を攻撃している最中殺されてしまった。後を継いだシャープ南アメリカ回航することを決めサン・フランシスコ岬を南に向かってアメリカ目指した。途中グアヤキル沖で船を拿捕しラ・セレーナの町を掠奪し火を放ったクリスマス頃、ファン・フェルナンデス諸島においてシャープ解任されかわりにジョン・ウォトリングが船長となった一味アメリカ海岸スペイン人が銀の集積地に使っていた町を攻撃したが、ウォトリングを含む多数死者出し、これは失敗終わった。再びシャープ指揮執ることになり、一味撤退し、3か月もの間海岸近く行ったり来たりしながら集落から物資奪った1681年4月17日トリニティ号内でシャープに対して不信任投票が行われ、船長の座は維持したものの約50人が船を去ることになった。これにはダンピアやウェーファーが含まれていた。 7月8日商船サン・ペドロ号を拿捕し大量物資のほかに37,000もの8レアル銀貨掠奪した。さらに3週間後、エル・サント・ロサリオ号を戦闘の末に拿捕し大量積荷貨幣、銀の延べ棒掠奪した。この船には太平洋海岸線沿ってある全ての港や停泊地に関する海図積まれており、これは海賊行為大い役立ったとされる一味マゼラン海峡目指したが、10月ごろに強風ぶつかって意図せず大きく南下しホーン岬回航することになってしまった。同年のクリマスマスごろまでにはリオ・デ・ジャネイロ緯度まで北上した1682年1月30日一味アンティグア到着したが、島のコドリントン総督一味入港拒否してしまった。そこで一味は7人の仲間トリニティ号を与え、あとの者たちは2隻の船で直接イギリス帰郷することにした。彼らがダートマス到着したのは3月26日のことであった

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