プロイセン征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 03:42 UTC 版)
「ヘルマン・フォン・ザルツァ」の記事における「プロイセン征服」の解説
1225年冬、騎士団がハンガリーから追放された後、マゾフシェ公コンラト1世はキリスト教に帰依していないプロイセン人への防備として、ドイツ騎士団を領地に招聘した。ヘルマンはハンガリーでの失敗を省みて、騎士団の軍事力の増強に加え、世俗世界での有力な庇護者であるフリードリヒ2世との関係の強化に努めた。また、ヘルマンは教皇にも支援を求め、神聖ローマ帝国の競争者である教皇はヘルマンと騎士団に援助を与えた。 政治的に対立していたローマ教会とフリードリヒはどちらも騎士団を味方に引き入れようとし、騎士団に多くの援助を与えた。ヘルマンが教皇とフリードリヒの元を訪問するたびに、寄付金と新たな権限が騎士団にもたらされた。フリードリヒは1226年に発布したリミニの金印勅書において、騎士団がクルムラント(英語版)で有する権利を確認し、プロイセンの征服を許可した。1230年にはグレゴリウス9世からもプロイセンへの進出を認める勅令が与えられ、騎士団とコンラト1世の間に協定が結ばれた。 教皇とフリードリヒの両方から承認を得た騎士団は、1230年からプロイセンをキリスト教化するための長い軍事活動を開始する。同年、ヘルマンはプロイセン征服の最高責任者として、ヘルマン・バルクをラントマイスターに任命した。この時ヘルマンはクルムラントにおらず、フリードリヒに従ってローマ王(ドイツ王)ハインリヒ(7世)の反乱を対処していた。 1233年に騎士団はクルム要塞(ヘウムノ)の特権を発布、移住した市民の権利を規定し、都市の建設を進める。翌1234年にグレゴリウス9世からクルムの支配、プロイセンの征服と征服地の所有が認められ、東方進出の足掛かりを築いた。
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