プロイセン宰相
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「アルブレヒト・フォン・ローン」の記事における「プロイセン宰相」の解説
ドイツ帝国樹立以来、ドイツ帝国宰相とプロイセン宰相職を兼務していたビスマルクは、病気を理由に1872年12月20日にプロイセン宰相職のみ辞して、ローンをその後任にした。1873年1月1日にローンが正式にプロイセン宰相に任命され、同時に元帥位を与えられた。 この頃ビスマルクはユンカーの領主裁判権をはく奪する郡法案を可決させるべく、プロイセン貴族院に同法案に賛成する議員を押し込む「貴族院議員製造措置」を強行し、貴族院保守派から激しい反発を受けていた。陸相ローンも貴族院保守派に同調してビスマルクを批判していた。老齢で軍務経験しかないローンに宰相の職は務まらないと確信していたビスマルクは、ローンをあえて宰相にすることで、プロイセン衆議院選挙において保守派を大敗させ、保守派が再びビスマルクを支持せざるをえない状況を作り出そうと目論んでいたという。 しかしプロイセン衆議院選挙を待つまでもなく、ローンと保守派は大打撃を受けることになった。1873年1月14日、国民自由党の議員エドゥアルト・ラスカー(ドイツ語版)がプロイセン衆議院においてプロイセン内閣首席参事官ヘルマン・ヴァーゲナー(ドイツ語版)とプロイセン商務大臣ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・イッツェンプリッツ(ドイツ語版)伯爵による鉄道会社設立をめぐる不正を追及したのである。これに対するローンの対応は杜撰で、彼はヴァーゲナーを擁護し、ラスカーこそ汚職にまみれていると批判した。だがラスカーは2月7日のプロイセン衆議院において実名をあげて汚職組織を暴いていくことでローンを論破した。 ヴァーゲナーは辞職する羽目になり、ローンも7月には休暇に入り、11月には全ての公務から引退することを余儀なくされた。ちなみにローンの辞任直前にプロイセン衆議院選挙が行われ、保守派は惨敗した。したがってもしこのスキャンダルがなかったとしても結局ローンは辞職する羽目になったと考えられている。
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