プロイセン国王の帝冠拒絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 06:48 UTC 版)
「ドイツにおける1848年革命」の記事における「プロイセン国王の帝冠拒絶」の解説
1849年4月3日、フランクフルト国民議会の代表団がベルリンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に謁見し、新憲法下の帝冠を奉呈した。 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は代表団に対し、光栄に思うが、並び立つ諸君主と諸都市の同意なしには帝冠を引き受けられないと述べた。しかしその後、ロンドンの駐英公使ブンゼン(ドイツ語版)にあてた手紙の中では、「1848年革命の悪臭であふれんばかりに恥辱され」 (verunehrt überschwänglich mit ihrem Ludergeruch der Revolution von 1848) 、「糞と泥で焼き固めた」 (aus Dreck und Letten gebacken) 帝冠が「どぶの中から」 (Krone aus der Gosse) 差し出されたと述べて強い不快感を示した。 「玉座のロマン主義者」 (Romantiker auf dem Thron) と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世にとって、受諾する意志があるのは神の恩寵による帝冠だけであって、「どぶの中からの帝冠」 (Krone aus der Gosse) ではなかった。また、外相アルニム=ハインリヒスドルフ=ヴェルベロー(ドイツ語版)は、帝冠の受諾によりオーストリアやロシアとの緊張が高まることを恐れて反対に回った。最終的に帝冠は拒絶された。 パウロ教会憲法は29の小領邦の承認を得たが、オーストリア、プロイセン、バイエルン、ハノーファー、ザクセンの承認は得られなかった。
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