プロイセン史上の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 04:39 UTC 版)
「ハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルト」の記事における「プロイセン史上の評価」の解説
9月17日、フリードリヒ大王はヴィンターフェルトの死を報じられると言った。 「私は我が敵の大軍に対して様々な対策を見つけるであろうが、ヴィンターフェルトのような者を再び得ることは少なかろう。」 様々な見解があるものの、ヴィンターフェルトは絶対的な忠誠心と戦略的な能力によって、大きな信頼と高い名声を博した。 それに対し、ツィーテンやベーヴェルン公といったプロイセンの他の将軍は、ヴィンターフェルトを地位の高さゆえに完全に嫌っており、その死を聞いても、必ずしも悲しまなかった。また彼は他のライバルに対し陰謀を企み、干渉したとして批難されている。プロイセン公子ハインリヒにとって、ヴィンターフェルトは戦争の扇動者であった。ヴィンターフェルトの急逝は、この王弟に言わせれば「神の正しい裁き」ですらあったのである。そのため、ハインリヒが兄のアウグスト・ヴィルヘルムや3回にわたるシュレージエン戦争を戦った諸将を記念し、ラインベルク (Rheinberg) に建てさせた記念碑に、ヴィンターフェルトの名はない。しかし、フリードリヒ大王自身の名もまた刻まれてはいない。 没して100年後、ヴィンターフェルトの遺骸はベルリンの傷痍軍人墓地 (Invalidenfriedhof) へ移された。その墓石の裏にはフリードリヒ大王の言葉、 「彼は優れた、良き人にして我が友であった。」 が刻まれている。
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