プロイセン州での粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 22:46 UTC 版)
「長いナイフの夜」の記事における「プロイセン州での粛清」の解説
6月30日午前10時頃、「ハチドリ」の合図を受けたゲーリングは、ベルリンでの粛清を開始した。ベルリンでの粛清はプロイセン州首相兼内相ゲーリングのほか、ゲシュタポ監察官及び長官代理ハインリヒ・ヒムラー、ゲシュタポ局長ラインハルト・ハイドリヒらによって主導された。 カール・エルンストSA中将はじめ突撃隊幹部150人が次々と検挙され、ベルリンのリヒターフェルデ士官学校に連行されてそこでゲーリングが選び出した者が次々と銃殺されていった。 ナチ党政権の樹立を妨害した前首相・シュライヒャー中将は妻ともどもゲシュタポによって自宅で殺害された(シュライヒャーの殺害はゲシュタポの独断であり、これにはゲーリングははじめ反対していたという)。カトリックの反ナチ派の運輸省官僚エーリヒ・クラウゼナーは、運輸省内の執務室でハイドリヒの放ったSD隊員に頭を打ちぬかれて殺害された。グレゴール・シュトラッサーもゲシュタポの拘禁所へ連れて行かれ、そこで親衛隊員に背後から撃たれて殺害された。パリの亡命者に出回っている反ナチ書籍『ドイツ国防軍将軍の日記』の著者と疑われていたフェルディナント・フォン・ブレドウ少将も何者かに頭を撃ち抜かれて殺されている。フランツ・フォン・パーペンも危ぶまれたが、ゲーリングの庇護で命だけは助かった。しかしパーペンの秘書は殺されている。 これに乗じて各親衛隊幹部は個人的な怨嗟による殺人も起こした。特に顕著なのがエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーによるアントン・フォン・ホーベルク=ブーフヴァルト男爵の殺害であった。アントンも親衛隊員であったにもかかわらず、かつてアントンがデム・バッハ=ツェレウスキーの副官をしていたころに個人的に彼と折り合いが悪かったというだけで殺されることとなった。 シュライヒャーは軍部が輩出した首相であっただけに彼を銃殺したとなると軍部から反発があるのではないかというナチ党幹部の心配をよそにその日の午後には早々に国防省軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ将軍が「この数週間、元首相退役大将フォン・シュライヒャーは突撃隊の反国家的グループおよび国外の団体と狂信的な関係を続けていたことが明らかとなった。警察の逮捕に際して彼は武器を持って抵抗した。銃撃戦のために彼と彼の妻は致命傷を負った」と嘘の発表を行って粛清を正当化している。
※この「プロイセン州での粛清」の解説は、「長いナイフの夜」の解説の一部です。
「プロイセン州での粛清」を含む「長いナイフの夜」の記事については、「長いナイフの夜」の概要を参照ください。
- プロイセン州での粛清のページへのリンク