ゲシュタポ局長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/16 14:52 UTC 版)
「ハインリヒ・ミュラー」の記事における「ゲシュタポ局長」の解説
ナチスが政権を握った1933年に親衛隊保安部 (SD) の長であったハイドリヒは、ソ連警察制度についての権威者とされていたミュラーとその部下たちを組織に勧誘した。1934年に親衛隊 (SS) に加入したミュラーは急速に地位を向上させ、1939年までにはSS中将に昇進している。1939年9月に、ゲシュタポと他の警察組織が国家保安本部 に統合された時には、国家保安本部・第4局のチーフであり、何人かの同姓同名の指導者と区別するために、「ゲシュタポ・ミュラー」として知られた。ゲシュタポの長としてミュラーは、1935年までにドイツ共産党とドイツ社会民主党の下部組織に潜入して破壊する役割を果たし、ナチス政権の安定化に貢献した。諜報機関としてはヴィルヘルム・カナリス海軍大将の機関と競合し、コミュニストのスパイ組織「赤いオーケストラ」にスパイを潜入させ、偽情報をソ連に流すことに成功する。 ヒムラーとゲッベルスの担当分野であった「ユダヤ人政策」にも深く関与し、1939年までユダヤ人移住全国本部の所長であった。この地位を引き継いだのが、彼の部下のアドルフ・アイヒマンである。ユダヤ人のホロコーストにおいては、全体計画者であるヒムラーと実施事務を司るアイヒマンとの中間の位置を占める。主たる仕事はドイツ国内の警察だが、ユダヤ人移住・絶滅にかかわる方針を伝達し、その細部にわたる進行状況・情報をアイヒマンから報告される立場にあった。1941年にアイヒマンにドイツのソ連占領地区を視察させ、1年間でユダヤ人約140万人を殺害した特務機関であるアインザッツグルッペンの仕業についての報告を受け取っている。アイヒマンの印象では「ミュラーならば肉体的絶滅のような野蛮なことは提案しなかっただろう」し、アイヒマンの報告はミュラーにはあまり利用されなかったという。おそらくソ連攻撃の6月以前にヒトラーが「ユダヤ人の肉体的抹殺」を命令したことを知る数少ない一人であり、ユダヤ人問題の「最終解決」を決定した1942年のヴァンゼー会議にも出席した。 1942年5月にプラハで直接の上司であるハイドリヒが暗殺された件を捜査し、暗殺者の追及に成功したが、カナリスの陰謀を訴訟に持ちこむことをヒムラーに阻止されるなど、ナチス政権における彼の権限はこのころからやや縮小されつつあった。形勢を立て直すため、ヒムラーのライバルであるマルティン・ボルマンと提携しはじめたらしい。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂後に、ミュラーは陰謀者の摘発と逮捕を担当した。この時カナリスを含めて5,000人を超える人々が逮捕され、約200人が処刑された。戦争の最終段階であった1944年12月、ミュラーはまだドイツの勝利を確信し、ナチス指導者の一人にアルデンヌ攻勢がパリの奪回をもたらすと語っていたという。1945年4月ソ連の赤軍がベルリンを攻撃していたときに、ミュラーは市中心の総統司令部(総統地下壕)でヒトラーを囲んでいた忠臣の一人である。ヒムラーがヒトラーに無断で西側連合国と和議を進めようとした際に、ヒトラーがミュラーに与えた命令はヒムラーの連絡将校であり、愛人エヴァ・ブラウンの義弟でもあるヘルマン・フェーゲラインの逮捕と処刑であった。
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