ゲーリングとディールスの指揮下時代
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「ゲシュタポ」の記事における「ゲーリングとディールスの指揮下時代」の解説
1933年4月26日付通達でゲーリングはプリンツ・アルブレヒト通り8番地にあったホテルを接収すると、ここにプロイセン秘密国家警察局 (Preußisches Geheimes Staatspolizeiamt) を新設し、プロイセン州の政治警察の一本化をはかった。1A課もここに吸収され、その中核となった。これがゲシュタポの原点である。ちなみに「ゲシュタポ」という略称は、郵便局がここのスタンプを作る際、「GESTAPA(ゲシュタパ)」という郵便略号を使ったのが最初である。この頃は秘密国家警察「局(amt)」が「ゲシュタパ」と呼ばれていた。その後いつの間にか秘密警察全体が「GESTAPO(ゲシュタポ)」の名で知れ渡るようになったものである。この日に公布された第1ゲシュタポ法は、ゲシュタポを最上位警察とし、その職務は秘匿とし、州内相(ゲーリング)にのみ責任を負うと定めていた。同日の内相回覧布告により、各県毎に秘密国家警察局を補助し、県知事に直属する国家警察部が新設された。 秘密国家警察局長、つまりゲシュタポの初代長官 (Leiter des Geheimen Staatspolizeiamtes) にはルドルフ・ディールスが就任した。2月22日にプロイセン州内相としてゲーリングが発した補助警察布告により、突撃隊と親衛隊隊員が補助警察官として警察の捜査を補助することとなっていたが、4月21日と6月7日の補充規定により、ゲシュタポに対する補助機能は親衛隊のみが担当することとなった。 さらに1933年11月30日に「秘密国家警察に関する法」、通称第2ゲシュタポ法が公布され、秘密国家警察局長の上にゲシュタポ長官 (Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) を置き、長官は州首相(ゲーリング)が兼務するとされた。局長のディールスはゲシュタポ統監 (Inspekteur der Geheimen Staatspolizei) を兼ねることなり、各県の国家警察部は首相の命令下にある統監の直接指揮下におかれることとなった。これによりゲシュタポはドイツ国内務省やプロイセン州内務省、各県の指揮下から離れてゲシュタポ長官、すなわちゲーリングの個人的指揮下に置かれる形となった。また、この時点でゲシュタポは行政訴訟の対象にならないとされ、ゲシュタポの措置に異議を唱えることは不可能になった。 なお1933年9月末にはルドルフ・ディールスが一時ゲシュタポ局長を外され、ベルリン警察副長官に左遷されている。これはヒンデンブルク大統領の要請によるものであった。大統領の下には各方面からゲシュタポの無法やディールスの不正行為についての直訴が届いていた。これらの直訴にはドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックと親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが関与していた。フリックはゲーリングがゲシュタポの指揮権を自分から独立した物にしようとしていることに腹を立てていた。一方ヒムラーはゲシュタポの指揮権をゲーリングから奪い取ることを狙っていた。 ヒムラーの命を受けたヘルベルト・パッケブッシュ(ドイツ語版)親衛隊大尉が親衛隊部隊を率いてディールスの自宅を強襲し、彼の共産党との関係や不正の証拠を手に入れようとした。ディールスは警察を引き連れて急行し、パッケブッシュを逮捕したが、ゲーリングは彼を釈放させ、さらにディールスの自宅にゲーリングの警察が捜査を行い、身に危険を感じたディールスはチェコスロヴァキアのカールスバートに身を隠した。ゲーリングが後任としてゲシュタポ局長および統監に据えたのはアルトナ警察署長パウル・ヒンクラーであった。しかしヒンクラーは、アルコール中毒者で奇行が多く、ゲーリングも10月末には解任せざるを得なくなった。この後、ディールスが呼び戻されて再度ゲシュタポ局長に任命された。 ただしディールスは、1933年6月22日には州警察局長クルト・ダリューゲに対し「原則的に将来秘密国家警察局の執行吏はSS(親衛隊)から採用されるべきでしょう」という進言を行っており、親衛隊に迎合する動きも見せていた。
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