ゲーリングのドイツ政界復帰、党勢拡大、そして最期
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「カリン・ゲーリング」の記事における「ゲーリングのドイツ政界復帰、党勢拡大、そして最期」の解説
ヒンデンブルク大統領の政治犯の恩赦があったのちの1928年1月にベルリンへ戻り、ナチ党の活動に戻ったゲーリングは5月にはナチ党の国会議員に当選した。カリンの体はこの頃にはだいぶ危険な状態になっていたが、彼女は最期の力をふりしぼってゲーリングの社交界での活動に尽力した。ベルリンにおける彼女の一番の親友はスウェーデンと関係の深いドイツの名家ヴィクトル・ツー・ヴィート侯爵夫妻で、彼らをヒトラーとナチ党に共鳴させた。そしてドイツ貴族階級の大物達が次々にゲーリングとカリンと食事を共し、2人は説得と反論を駆使して党の宣伝を行った。彼女はそれらが「私もヘルマンもひどくしんの疲れることです」と認めながら、「もし求められれば私達のできる全てを捧げるつもりであることも理解しています。なぜなら私達がそれを望んでいるからです」と書いている」。1930年2月、カリンはとその成果について嬉しそうに母親へ手紙を書いている。「私たちはすでにヒトラーとその主義の賛同者をたくさん獲得しています。アウグスト・ヴィルヘルム王子もヴィート夫妻と同じく、今では私達の主義を信奉しています」。このようなカリンとゲーリングの貢献によって、貴族階級の多くがナチ党に入党した。カリンの生きる希望は、ゲーリングの存在とヒトラー及びナチ党の伸長であり、3月母親への手紙では「ヘルマンがいなくなると本当にうつろな気持ちで、絶えず彼のことを考えています」「私がどうしたら彼とヒトラーの運動に何らかの形で、役立つことができるかを考えている時だけ、天上から力が与えられるかのようです」と記した。ゲーリング家には党の幹部も良く集まり、同年のクリスマス・イヴにはベルリン大管区指導者ゲッベルスが来訪している。その様子をカリンは嬉しそうに「ゲッベルスは…ハーモニウムをひきました。私達はみな昔ながらのクリスマスの歌・・・きよしこの夜・・・などを歌いました。トーマスと私はスウェーデン語、ゲッベルスとチリー(メイド)はドイツ語でしたが、よくハーモニーが合っていました」と書いている。 1931年6月、ヒトラーはゲーリングとカリンの貢献に報いるため、メルセデス・ベンツを二人に贈った。カリンたっての要望で姉のファニーらと、ゲーリングとこの車で最後の旅行に出かけたが、すでにカリンは車の椅子からほとんど動けないまでに衰弱していた。一行はドレスデンを訪れた際にヒトラーと落ち合った。姉ファニーの証言によると、一行が宿泊するドレスデン・パラスト・ホテルにヒトラーを一目見ようと集まった群集を見たカリンは「有頂天で幸福そのもの」であり、「もしも全ドイツ人が、ヒトラーがいかに私達に大きな意味を持っているかを理解すれば」「ドイツに新時代が生まれるのだけれど」と語ったという。 1931年9月25日、カリン最愛の母フルディーネが死去した。診療所に入院中のカリンは医師が止めるにもかかわらず、その葬儀に出たいとゲーリングへ哀願し、彼も認めざるを得なかった。ゲーリングがカリンを抱きかかえるようにして2人がストックホルムに到着すると、息子トーマスが待っていたが、葬儀はもう終わっており、カリンは憔悴しきってベッドから動けなくなった。医師はその夜さえ越せるかどうかとゲーリングに言い、カリンは意識を失っては時々回復する状態を繰り返した。唯一の当事者トーマスによるとゲーリングはカリンが意識を失ったときにだけ、その部屋を出て食事や髭剃りを急いで済ませた。「それ以外のときは、彼はベッドの傍らにひざまずいて、彼女の手を握り、髪をなで、顔の汗や口を拭いてやっていた」「そして彼は時々急に振り返って私を見つめていたが、声もなく泣いていた。我々は2人とも泣いた」。 1931年10月4日、ヒトラーから重要政局のためゲーリングへ直ぐ戻るようにという電報が届いた。しかし、ゲーリングはカリンが病気である限り、帰らないと決意していた。ちょうどゲーリング不在時に目を覚ましたカリンは、トーマスに「ひどく疲れたの。私お母さんの所に行きたい」「けどヘルマンがここにいる限り行けない。彼の所を離れるなんてとても耐えられないわ」と言った。そしてトーマスから、ヒトラーの呼戻しがあったがゲーリングは看病を優先して行くつもりはない、と告げられて号泣した。カリンは戻ったゲーリングの顔を自身の顔に引き寄せて語りかけた。その様子をトーマスは次のように語っている「彼女が、彼にヒトラーの要請に従うよう、頼んだり、哀願したり、命令さえしているのがわかっていた。彼はすすり泣きはじめ、彼女は彼の頭を抱えて胸の上に横たえた。それはあたかも、彼が彼女の息子であり、慰めを必要としているのは彼の方であるかのように思えた」。ゲーリングの泣き声に気づいて姉ファニーが部屋に入ってくると、カリンは「ヘルマンはベルリンに呼戻されているのよ。フューラーが緊急に彼を必要としているの」と言って荷造りを手伝うよう頼み、ゲーリングには「トーマスが世話をしてくれる」と言って安心させようとした。ゲーリングは自分が戻ってくるまでだと言い、カリンも「そうよ。あなたが戻ってくるまでよ」と同意したのだった。 ゲーリングを送り出したカリンは、その後1931年10月17日、心臓病により死去した。
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