ヴィクトル・ツー・ヴィートとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヴィクトル・ツー・ヴィートの意味・解説 

ヴィクトル・ツー・ヴィート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/04 10:34 UTC 版)

ヴィクトル・ツー・ヴィート
Victor zu Wied
ヴィート家
ヴィート侯子ヴィクトル、1900年頃

全名
出生 (1877-12-07) 1877年12月7日
ドイツ帝国
プロイセン王国ノイヴィート
死去 (1946-03-01) 1946年3月1日(68歳没)
連合国軍占領下のドイツバイエルン州モースブルク英語版
配偶者 ギーゼラ・ツー・ゾルムス=ヴィルデンフェルス
子女 マリー・エリーザベト
ベニグナ・ヴィクトリア
父親 ヴィルヘルム・アドルフ・ツー・ヴィート
母親 マリー・ファン・オラニエ=ナッサウ
テンプレートを表示

ヴィクトル・ツー・ヴィートVictor Prinz zu Wied, 1877年12月7日 - 1946年3月1日)は、ドイツライン=プファルツ地方の旧諸侯ヴィート家の侯子で、外交官。駐スウェーデンのドイツ大使(在任:1933年 - 1943年)を務めた。

経歴

ヴィート侯ヴィルヘルム・アドルフとその妻でオランダ王子フレデリックの娘であるマリーの間の四男として生まれた。全名はヴィルヘルム・フリードリヒ・アドルフ・ヘルマン・ヴィクトル(Wilhelm Friedrich Adolph Hermann Victor)。

すぐ上の兄ヴィルヘルムは、1914年に短期間ながらアルバニア公国の元首となった。また、父の姉エリーザベトルーマニアカロル1世の王妃である。また、母方の伯母のルイーゼスウェーデンカール15世の王妃、さらに父方の祖母マリーの妹ゾフィアオスカル2世の王妃ということで、スウェーデン王家とも深い親戚関係にあった。こうした縁故もあり、ヴィクトルは1919年から1922年までストックホルムのドイツ在外公館の責任者を務め、さらに1933年から1943年までスウェーデン駐在のドイツ大使を務めた。1940年10月には、スウェーデンの最高軍司令官オーロフ・テルネル英語版ドイツ鷲勲章を授与する役目を果たした。

ナチ党政権掌握以前より、スウェーデン貴族出身であるヘルマン・ゲーリング夫人カリンを通じて同夫妻と親密になり、アドルフ・ヒトラーと党の共鳴者となった[1]。これはドイツ貴族上流階級における同党支持拡大という結果をもたらした。

1944年、ヴィクトルは総統ヒトラーより25万ライヒスマルクもの下賜金(Dotation)を与えられている。

子女

1912年6月6日にヴィルンフェルス城(Schloß Wildenfels)において、ゾルムス=ヴィルデンフェルス女伯爵ギーゼラ(1891年 - 1976年)と結婚し、間に2人の娘をもうけた。

  • マリー・エリーザベト・シャルロッテ・ゾフィー・アンナ・パウリーネ・ルイーゼ・ゾールヴァイヒ(1913年 - 1985年)
  • ベニグナ・ヴィクトリア・インゲボルク・アンナ・ヴィルヘルミーネ(1918年 - 1972年) - 1939年、シュロートハイム男爵エルンスト・ハルトマンと結婚

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ モズレー、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 上』p148

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヴィクトル・ツー・ヴィート」の関連用語

ヴィクトル・ツー・ヴィートのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴィクトル・ツー・ヴィートのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴィクトル・ツー・ヴィート (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS