ゲーリングとの出会いから結婚まで
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「カリン・ゲーリング」の記事における「ゲーリングとの出会いから結婚まで」の解説
第一次世界大戦のドイツ軍航空隊のエースパイロットであったヘルマン・ゲーリングは、ドイツ敗戦後にスウェーデンに移り、ここで民間飛行士などをしていた。1920年2月20日、ゲーリングはエアタクシー業務で探検家エリク・フォン・ローゼン伯爵(sv:Eric von Rosen)を彼の居城であるロッケルスタド城(sv:Rockelstad slott)へ送った。このエリク・フォン・ローゼンの妻マリーはカリンの姉だった。カリンはマリーの話し相手になるため、よくこの城を訪れており、この日もこの城にいた。城の中に招かれたゲーリングはカリンと出会い、一目見て恋に落ちたという。この頃のゲーリングは痩せていて生涯で最も美男だった頃であった。ゲーリングは一次大戦のパイロットとしての冒険談や敗戦後のドイツの混乱、連合軍によるドイツへの圧政の酷さなどをローゼン一家に聞かせ、すっかり一家と意気投合した。フォン・フォック家もローゼン家も大戦中からの親独派であったから彼らはゲーリングの考えに大変共感を寄せた。カリンが待ち望んでいたヒーローの姿をゲーリングに見るのに時間はかからなかった。すっかりローゼン一家と仲良くなったゲーリングはローゼン伯爵の妻マリーが城の中に置かせていた「エーデルワイス会」の礼拝場にも招かれた。カリンもこの信仰に強く惹かれていることを知ったゲーリングは城を発った後にすぐに書いて送ったお礼の手紙の中で言葉巧みに「エーデルワイス会」の信仰を絶賛している。このこともカリンの心を強く揺り動かした。2月24日にはカリンはゲーリングと会うためにストックホルムへ戻っていった。 ヘルマンたちはデートを重ね、カリンは姉ファニーに「彼こそが私がいつも夢に見ていた男性よ」などと語るようになり、1920年夏にはヘルマンの母フランツィスカに紹介してもらうためにミュンヘンへ旅立つほどになった。1921年初めにはカリンの夫ニルス・フォン・カンツォフ一家の昼食会にゲーリングが招かれている。ゲーリングとカリンの関係はニルスはもちろん、当時9歳の息子トーマスさえも知っていたが、ゲーリングの不思議な魅力はニルスやトーマスも虜にし、二人はゲーリングに好感を持っていたという。 ゲーリングとカリンはバイエルン州のオーストリア国境付近の山中に山小屋を借りた。ここは1920年から1923年の間、二人がよく滞在した。一度ストックホルムに戻った際にゲーリングはカリンにニルスとの離婚を求めたが、息子トーマスもいるカリンはこの時には拒んだ。しかしその後再びゲーリングとカリンはバイエルンの山小屋へ戻って同棲生活を送った。しかも二人はニルスに金の無心もしており、ニルスは妻が戻ってくることを期待して援助している。しかし結局、1922年12月13日にカリンはニルスと離婚した。ニルスはトーマスの親権は得たが、妻を失ったことで深刻なうつ病になり、1923年中頃には同僚を殺そうとして失敗し列車から飛び降りるという奇行を起こした。その後、教職を追われ、狂死した。 1923年1月25日にゲーリングとカリンはストックホルム、続いて二人が住むミュンヘンで挙式した。新婚旅行はイタリアだった。ゲーリングが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党員となるとカリンもすぐに熱心な国家社会主義者・反ユダヤ主義者・反共主義者になった。ゲーリングも「彼女は私には国家社会主義的すぎるな」と語ったほどだった。 1924年4月23日、ナチ党私兵集団である突撃隊再編のためゲーリングが突撃隊司令官となって初めてのパレードが行われ、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーはその様子を絶賛した。ヒトラーから、ゲーリングの功績をどれほど評価しているか口にすれば彼が自惚れてしまうほどだと言われ、喜んだカリンは「自分の頭が誇りですっかり有頂天になってしまいました」と答えた。するとヒトラーは彼女の手にキスをして、「あなたのように美しい頭の持ち主が、そんなになることはないでしょう」と告げた。カリンはトーマスへの手紙で「おそらくこれは最高にエレガントな褒め言葉とは言えないでしょうが、私は嬉しく思いました」と記している。
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