ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代とは? わかりやすく解説

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ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:02 UTC 版)

ゲシュタポ」の記事における「ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代」の解説

ナチ党の党警察組織である親衛隊 (SS)の全国指導者ハインリヒ・ヒムラー親衛隊諜報部 (SD)長官ラインハルト・ハイドリヒは、ナチス党政権掌握後、バイエルン州政治警察監督していた。ドイツ国内ヴィルヘルム・フリックは、独立傾向ゲーリング対決するための「実力」を求めて親衛隊接近してきた。フリックは、1933年11月から1934年1月までにかけてドイツ各州警察権力ヒムラー任せていった。ヒムラー指揮下に入っていないのはプロイセン州シャウムブルク=リッペ州 (Schaumburg-Lippe) の警察だけとなった1934年1月30日の「ドイツ国再建に関する法」により、州の諸高国家移行し5月1日には国家内務省プロイセン州内務省合併された。これ以降プロイセン警察の諸規定各州適用される自体徐々に増加していった。 フリック親衛隊からの圧力が強まる中の1934年4月20日ゲーリングは、ゲシュタポ長官代理ゲシュタポ統監ハインリヒ・ヒムラー任じたこれをもって実質的なゲシュタポ指揮権ヒムラー引き渡すこととなったゲーリング1935年11月20日までゲシュタポ長官の座にとどまったが、形式的な存在であった さらにディールスライン県知事に転出となり、4月22日ラインハルト・ハイドリヒゲシュタポ局長となったゲーリングゲシュタポ指揮権ヒムラー譲った理由諸説あり定かではない緻密さ要求される警察業務飽きてしまったとも、自らの名声秘密警察業務汚したくなかったともいわれるゲーリングライバルであるエルンスト・レーム以下突撃隊隊員たちが「第二革命」を唱えて暴走し始めていたので彼らとの対決のために親衛隊手打ちする必要があったのではないかともいわれるヒムラーゲシュタポ実質的な運営ハイドリヒゆだねたヒムラーハイドリヒバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルプレヒト街のゲシュタポ本部移動することとなった1934年6月末の長いナイフの夜突撃隊幹部粛清ではハインリヒ・ヒムラーラインハルト・ハイドリヒ主導的役割果たしたため、ハイドリヒ指揮下にあるもう一つ組織SDとともにゲシュタポ一連の粛清深く関与することとなったゲシュタポ粛清リスト作成し、さらにその実行である暗殺処刑にも参加したゲシュタポコマンドエーリヒ・クラウゼナー運輸省内で殺害し前首相クルト・フォン・シュライヒャー大将フェルディナント・フォン・ブレドウ少将殺害したハイドリヒは、有能な人材ゲシュタポかき集めることから始めた。まずバイエルン州警察時代部下たち、ハインリヒ・ミュラーフランツ・ヨーゼフ・フーバーヨーゼフ・マイジンガーらをベルリンゲシュタポ招集した。さらにベルリン警察にも目を付けベルリン刑事警察アルトゥール・ネーベ取りたてた。またハイドリヒドイツ各地から法律家専門家集めたが、その中にヴェルナー・ベスト博士がいた。さらに1935年初頭ゲシュタポ機構改革が行われた。各「課 (Abteilung)」を3つの「部 (Hauptabteilung)」に統合することとしたのであったゲシュタポは、1部行政・司法)、2部政治警察)、3部諜報警察)の3つの部から構成されることとなり、そのうちゲシュタポ全体統括2部統括ハイドリヒ自身が行い、1部3部ヴェルナー・ベスト統括した。ハイドリヒ統括する2部は、「マルキシズム担当課(共産主義者社会主義者取り締まり課長ハインリヒ・ミュラー。)、「反動非合法活動教会担当課(キリスト教会保守反ナチ運動取締り課長フランツ・ヨーゼフ・フーバー。)「NSDAP堕胎175頁、純血問題担当課(ナチ党内反ヒトラー活動堕胎同性愛ユダヤ人との交際取り締まり課長ヨーゼフ・マイジンガー。)など6つの課から構成されていた。 1936年2月10日第3ゲシュタポ法が制定され以降ゲシュタポ職権プロイセン州限らず、全ドイツに及ぶことが定義された。ただしこの法律公布後もゲシュタポは、その正式名称プロイセン州をふくむドイツ全国を指す「Reichs(ライヒの)」を冠さず、「Staats」の名称を冠したままであった。またこの法律によりゲシュタポは法を超越した存在である事が確認された。すなわち裁判所にはゲシュタポ決定合法であるかどうか審査はなく、また裁判所無罪判決受けたであってもゲシュタポ逮捕して保護拘禁」することが可能となった1936年9月20日にはゲシュタポ局長各州政治警察司令官となることが確認された。

※この「ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代」の解説は、「ゲシュタポ」の解説の一部です。
「ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代」を含む「ゲシュタポ」の記事については、「ゲシュタポ」の概要を参照ください。

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